僕と済州島の物語

2002年に済州島でホームステイ、 2005年に済州島に留学、2013年に済州島で国際結婚、2015年に済州島で長男誕生。 そんな僕と済州島の物語です。

済州島留学物語 第2話【春1】

「ご存じのとおりここは島だし、日本人の学生は少ないの。だからわたしもできるだけのことはする」

 大学の国際課からやってきたウニョンさんは早歩きで階段を上りながら、流暢な日本語を話した。

「わたしが日本に留学していたころは、日本人の友だちが少なかった。いつも韓国人の友だちと話してた。わたしが韓国人だったからかな。日本の学生もあんまり相手にしてくれなかったの。だから、日本語を聞くことは慣れたけど、話すことはなかなかできなかった」

 僕が何か言おうとした時、ウニョンさんは国際課と書かれた部屋の扉を開けた。前日の天気とは打って変わっての晴天で、部屋の窓からは昼前の柔らかな陽射しが注いでいた。

「アンニョンハセヨ!」

 小太りの中年男性が、笑顔で僕に手を差し伸べてきた。

「ワタシワ キムデス」

 キム氏は、それだけぎこちない日本語で話すと、「よく来たね」「これからよろしくね」そんなようなことを韓国語で話してきた。僕もぎこちない韓国語で、「よろしくお願いします」とあいさつをする。キム氏の隣には、前日の夜、空港まで迎えに来てくれた男性職員も立っていた。

「こちらが国際課のキム部長で、隣がパク課長。で、わたしはイ・ウニョン。わたしは今年大学を卒業して、ここで働いてるの」ウニョンさんが日本語でサポートをする。

「よろしくお願いします。僕はまだ韓国語が……」

「あ、そうだ。サチコ!」

 ウニョンさんが何かを思い出したように手を叩いて、入口のほうに視線を向けた。

「サチコ、この人、日本人だよ。昨日来た交換留学生。たぶん、タメ。仲良くしてね」

    見ると僕の入ってきた入口のすぐ近くに、茶髪でショートカットの女性が腰掛けていた。

「あ、どうも」

 彼女はそう言って軽く会釈をした。

 

 韓国の大学は、3月から新学期が始まる。まだ空気は冷たく、皆、ジャンパーやコートを着込んでいたが、キャンパス内には新出発の息吹が溢れていた。その日も朝から寄宿舎が騒がしかったが、留学生やソウルなどの遠方から来た学生たちが続々とやってきていたのだろう。サチコは僕よりも1日早く寄宿舎に到着したという。

「あたしも韓国に来たばっかのころは、何言ってるか全然わからなくてさ。とりあえず質問することはできるのよ。で、相手が答えるじゃん? でもその意味がさっぱりわからないの。こっちも質問した身だから、何言ってるかわからなくても、とりあえず『はー、なるほど』ってひたすらうなずいてたよ」

 勢いよくまくしたてるサチコの話に耳を傾けながら、学生食堂に向かっていた。前日、ウニョンさんと一緒に来たという彼女によると、安くて味はまずまずとのこと。

「韓国に来たばっかのころって、まだ来たばかりじゃなくて?」

「そうそう、あたしね、高校卒業してから一回就職したんだけど、2年で辞めてソウルの語学学校で勉強してたのよ。それでめっちゃ勉強して、この大学に入ったんだ」

「じゃあ、交換留学生じゃないんだね」

「うん、今1年生」

 学生食堂に着くとサチコは食堂のおばちゃんに話しかけられ、韓国語で楽しそうにコミュニケーションをとっている。さすがだ。韓国滞在歴2日の自分とはレベルが違う。

「韓国語うまいね」

「一年も韓国で暮らしてればね。あ、でもユウゴも日本で勉強してたんでしょ?」

「勉強はしてたけど専攻じゃなかったよ。第二外国語で週1回の授業があっただけ。うちの大学って新設大学だから、いろいろと競争も少ないし、留学試験もわりと簡単に通っちゃったんだ」

「ふーん。ま、でもここは、島だしね。この大学も日本人ほとんどいないって言うから、本気になればめっちゃ伸びると思うよ」

「そうだよね。シャイな自分にとっては大きなチャレンジだけど」

「シャイなんだ?」

「うん。済州島の海のように」

「何それ?」

「いや……きっと海ってシャイなんだろうなって勝手に思ってるだけだよ。海って実は無色透明で自分の色を持っていないし、本当は目立ちたくもないんじゃないかな。青く見えるのは空の色をしかたなく反映させてるだけであって……」

「ねえ、ユウゴって変わってるって言われるでしょ?」

「そうかな……。そんなことより、サチコはどうしてこの大学に入学することにしたの? ソウルにいたならいろいろチャンスもあったと思うけど」

「あ、あたしさ、在日なの。で、ルーツがここ」

「なるほど」

「ユウゴは、なんでこの大学にしたの?」

「それは……また今度、機会があったら話すよ。長くなるかもしれないし」

「そう言われると気になるなあ。一言で言えないの?」

「……海が好きだから?」

 

 朝鮮半島の南西部に位置する済州島は、北は朝鮮半島、東は日本列島、西は中国大陸に囲まれている。まさに北東アジアの十字路に浮かぶ島だ。島の中心には韓国一の高さを誇る漢拏山ハルラサンが勇ましく聳え立ち、島全体がそのすそ野でできている。

 僕はその済州島にある大学に交換留学生としてやってきたのだ。

 親元を離れて暮らすのは初めてのことだった。寄宿舎の部屋には机とベッドが一体になったものが三つ配置されていた。初めての集団生活、それも韓国人の学生との集団生活になる。

 ルームメイトはまだ到着していなかったので、僕が最初の入居者だった。

 その日の夕方、寄宿舎の部屋に戻ると数人の学生がいた。彼らは、部屋のドアを開けた僕と目を合わせると、なんだかもじもじしていた。

「アンニョンハセヨ」

 僕が自分から勇気を出して声をかけたのは、部屋の中から日本語の歌が聞こえてきたからだ。

 すると一番手前にいたピアスの学生が、

「コンニチワ。ワタシノナマエワ イ・ジソプ デス。ヨロシクオネガイシマス」と、たどたどしい日本語を話しながら握手をしてきた。

 彼の周りにだけスーツケースやらカバンやらが散在していたので、どうやら、彼がルームメイトのようだ。ほかの二人の学生は友人だろうか。

 もう一人の学生も、「ワタシワ ニホンゴ スコシ ベンキョウ シマシタ」と一言。僕が日本人であることを事前に聞いていたため、わざわざ日本語の自己紹介を暗記し、日本の音楽までかけていたのだろうか。そんな彼らの健気さに僕も韓国語で応えた。

「僕はユウゴです。日本から来ました。よろしくお願いします」

 おーっとささやかな歓声が起こる。

 話を聞くと、彼らはソウル近郊の水原スウォン出身で、午前中の便で一緒に済州島にやってきたのだという。その年に高校を卒業したばかりの学生たちで、韓国で日本の大衆文化が開放され始めた時に思春期を迎えていた彼らの日本文化への関心は高かった。

「僕は日本のロックが好きです」

 ピアス君が韓国語でそう言った時は驚いた。

 僕はいつのころからか、そういった音楽からはすっかり離れてしまっていたが、ある懐かしさがよみがえってきた。

「失礼ですが、おいくつですか?」

「今年で22歳です」

「お、ヒョンですね」

「ヒョン?」

「韓国では年上の男性をヒョンと呼ぶんです」

 年長者を敬う儒教の影響で、韓国語にはそういう呼び名があることは自分も知ってはいた。直訳すると「兄さん」にあたる。

「ヒョン、夕食は食べましたか?」

「……ただユウゴと呼んでください」

 日本では親族以外の者を「兄さん」と呼ぶことはあまりない。そのためヒョンと呼ばれるとなんだか不自然で気恥ずかしい。

「韓国ではみんな使いますよ、ヒョン」

 しかたない。これも文化の違いだと受け入れることにし、そのまま寄宿舎の食堂に向かった。

「あれ、ユウゴ。もう友だちできたの?」

 サチコだ。

「ルームメイトとその友だち」

「なんか今風の学生たちだね。あたしんとこはまだなの」

「一緒に食べる?」

「いいよ。仲良くしなよ」

 日本語で話す僕を不思議そうに3人が見つめていた。

「今何を話してたんですか?」

「僕たちの悪口を言ってたんじゃないですか?」

「今のは日本人ですか?」

 3人がそれぞれ疑問を投げかける。

「日本から来た学生です。友だちができたと紹介しました」

 大学で勉強してきた韓国語は丁寧語ばかりだ。いわゆるタメ口がうまく使えない。だけど年下にも礼儀正しい日本人留学生というのも僕らしくて悪くない。

 

 夕食を食べてピアスと一緒に部屋に戻ると、また別の学生が荷解きをしていた。

 度の強そうな厚い眼鏡をかけた彼は、僕らと目が合うと「アンニョンハセヨ。ユン・ギョンミンです」と早口で言い、せっせと自分の机にデスクトップPCをセッティングし始めた。ピアスも慌てて自己紹介をする。続けて僕も。

「ユウゴです。日本から来ました」

 ギョンミン氏は日本という言葉になんの反応も示さず、セッティングしたばかりのパソコンの電源を入れた。ピアスとギョンミン氏はその後も何か言葉を交わしていたが聞き取れない。すると突然、パソコンから壮大な音楽が響きわたり、ファンタジックな世界がPC画面いっぱいに映し出された。彼は慌てることなく、パソコンにヘッドフォンを差し込み、そしてそれを耳にあてがった。ピアスは僕に「彼も1年生ですよ」と耳打ちしてくれたが、どう見ても自分よりは年上に見えた。

 疲れていたのかピアスは自分のベッドに上がるとそのまますぐにいびきをかきはじめた。その日の朝、済州島にやってきたばかりなのだから無理もない。ピアスが持ってきたと思われるCDコンポからは、韓国語のロックが流れ続けている。消そうかと思ったが、勝手に他人の物に触れるのもためらわれたので放っておいた。隣のゲーマー君は何かぶつぶつ言いながら、キーボードを連打している。ピアスのロックとゲーマーのキーボードは、互いに干渉しあうことなく、好き勝手に音を立てていた。

 僕も我が道を行くように、日記帳の中からメモ書きを取り出し、机の前の壁に貼った。若き日に日本に留学し、夭逝した尹東柱の詩の一節だ。

 

《星をうたう心で

 生きとし生けるものをいとおしまねば

 そしてわたしに与えられた道を

 歩みゆかねば。》

 

 こうして僕はピアスとゲーマーとルームメイトになった。2人とも僕とは違うタイプだったが、お互いのプライバシーを尊重しながら、一定の距離を保てばなんとかやっていけそうな気がした。

 ルームメイト。不思議な感覚だ。家族でもないのに、生活を共にするなんて。あるいは、次第に家族のような関係になっていくのだろうか。それはルームメイトに限ったことじゃない。同じ屋根の下で暮らすほかの部屋の学生たちとの関係もやがてはそうなっていくのだろうか。

 そんなことを考えていた僕の前に、1人の学生が現れた。

 ピアスとゲーマーとの出会いから2日ほど経ったその日の午後、僕は自分が所属することになる社会学科の学科長にあいさつに行き、早めに寄宿舎に戻った。洗濯をしようと思ったのだ。寄宿舎の洗濯機は数に限りがあるため、早い者勝ちだ。朝や夜は混みあうため、午後の合間を狙うことにした。

 部屋のドアを開けると誰もいない。2人とも授業中なのだろう。少し解放された気分に浸り、床に寝転んだ。オンドルの温もりが全身を包み込み、実家の炬燵を思い出した。それは、まだ小さかった子どものころの温もり……。

 両手を天上に思い切り伸ばす。10本の指がそれぞれ意志を持った生き物のように見えてくる。その奔放な動きは、僕を静かに鼓舞する。僕は自由なのだと。

 その時、ドアをノックする音が聞こえてきた。

 誰だろう? ピアスの友だちだろうか。居留守を使おうか。10本の自由な指は隠れるように床にへばりつく。しかし、もう一度ノックする音が聞こえた瞬間、僕はすっと立ち上がりドアに向かっていた。ここは僕の家ではないのだ。そう、暖かい炬燵のある実家ではない。

 ドアを開けると、寄宿舎の食堂で見かけたことのある茶髪の学生が立っていた。

「アンニョンハセヨ。前の部屋にいる学生ですけど。あの、日本の方ですよね? 一言あいさつに伺いました」

 表情が硬い。韓国語だったが、僕に気を使ってかゆっくり話してくれる。

「この階には、インド人やアメリカ人、中国人……留学生がたくさんいますよね。ずっとあいさつで皆さんの部屋を訪ねてきたんですが、あなたが最後です」

 刺すような視線で僕を睨む。

「正直に言うと、僕は日本が好きではありません。どういう意味かわかりますよね?」

 なんだか嫌な予感だ。

「そうなんですか……」

「この部屋の周辺の学生はみんな同じ学科なんですけど……例えば10人いれば7人は日本があまり好きではありません。イメージが悪いんです。だから僕が今日、こうしてあなたに会いに来ることについて『なんで日本人に』と言う人もいました。でも、すぐ前の部屋に住んでいますし、あいさつをするのが礼儀だと思いました」

 10人に7人? 言葉を失う。それでは、この部屋の周辺の学生のほとんどが日本嫌いということじゃないか。

「韓国人の中には『日本から学ぶことは何もない』『日本語を学ぶ必要はない』と言う人もたくさんいます。日本人も韓国人に対してそんなふうに思ってる人が多いんじゃないですか? 韓国から学ぶことなど何もないと。まあ、日本も韓国もお互いを誤解しているところはたくさんあるようですが」

 気を張り詰めていたせいか、彼のゆっくりと話す韓国語はほぼ聞き取れた。重たい空気が流れる。面と向かって「日本が好きではない」と言われたのは初めてだ。

「あなたはなんで韓国に留学しようと思ったんですか?」

「それは……」

 その時、「ヨンジュン!」という大声が廊下に響きわたる。彼ははっとした顔で「はい、ヒョン!」と叫ぶと、

「すいません。呼ばれてしまって。僕の名前はチェ・ヨンジュンです。また今度ゆっくり話しましょう」

「はい、僕も今度ゆっくり話がしたいです」

「お名前は?」

「ユウゴです」

「わかりました」

 そう言って足早に去っていった。

f:id:ash-kiseki:20210731153113j:plain