僕と済州島の物語

2002年に済州島でホームステイ、 2005年に済州島に留学、2013年に済州島で国際結婚、2015年に済州島で長男誕生。 そんな僕と済州島の物語です。

済州島留学物語 第3話【春2】

 僕は日本の大学で社会学が専攻だったため、留学先でも社会学科に在籍していた。外国人学生を対象にした韓国語の授業は週に一度だけだったので、僕が留学先で受講する授業のほとんどが社会学だ。ただ、日本ではバイトが忙しく、授業に出てもうとうとしているか、何も考えずにぼんやりしていたため、蓄積された社会学の教養などほとんどなかった。そんな自分が、大学を、日本を、代表している。

 最初に受講したのは理論社会学の授業だった。

 誰も知り合いのいない教室の一番後ろにひっそりと座った。気のせいだろうが、周りの学生たちが賢く見える。外国人である自分が、ほかの韓国の学生たちと同じように授業についていけるはずがない。ならばこれも韓国語の聞き取り学習だと思って教授の話にひたすら耳を傾けることにした。韓国語と日本語は漢字語の音が近い。そのため、漢字語が多い専門用語であればそれなりに聞き取りが可能だ。例えば「批判理論」だとか「機能主義」だとか。

 最初こそは全神経を研ぎ澄ませて集中していた。しかし、徐々にわからない単語や聞き覚えのない表現が増えてくると、穴の開いた風船のように全身の力が抜け、教授の話にもうわの空になっていった。

 すると突然、教授が前のほうに着席していた学生に質問を投げかけた。学生が答える。そしてまた次の学生へランダムに指名した。

 そうだ。この講義はすでに理論社会学の基礎を受講した学生たちを対象にした講義だったのだ。よく聞いてみると、以前、学習したと思われる内容の理解を確認しているようだ。

 このままのペースで行くと確実に自分にもその順番は回ってくる。不意に姿を現した刺客に心臓を射抜かれたような痛みが、全身を駆け巡る。

 疑問がわく。はたしてこの教授は、そしてこの教室にいる学生たちは、この場に、日本人留学生がいることを知っているのだろうか。

 その時だ。教授が僕に何かを問いかけてきた。聞き取れない。視界が真っ暗になる。沈黙。教室中の視線が集まる。沈黙。顔が徐々に火照ってくる。呼吸が荒くなる。なんでもいい。何か言わなきゃ。沈黙。

「先生、日本人の留学生ですよ」

 誰かの声が聞こえた。

「ああ」

 教授は何かを思い出したかのように納得し、そしてまた次の学生を指名した。僕は、安堵とともに妙な恥ずかしさに襲われた。教授の質問に対して何も答えられなかった情けなさによるものだろうか。あるいは、自分が今、間違った場所に来てしまっているんじゃないかという居心地の悪さによるものだろうか。

 僕はその授業が終わるまで、行き場のない孤独に苦しんだ。認められたいという承認欲求の一方、誰も僕の存在に気づかないで放っておいてほしいという投げやりな思いが早くも頭をもたげた。そして授業が終わると、誰とも視線を合わすことなく、何事もなかったかのように、そっと静かに教室を出た。それが留学最初の授業だった。

 

 その日は、午前中の理論社会学の講義に続き、午後には社会調査方法論の授業があった。5分前に教室に着いたが誰もいない。中止になったのだろうか。自分にはそういう情報が入ってくるネットワークすらない。すると1人の女子学生が後ろから声をかけてきた。

「あの、講義の場所、変わったみたいですよ」

 彼女の案内で変更後の教室に向かった。僕のことを日本人留学生だと知っているようだ。午前中の授業の場にもいたのだろうか。

 教室に着くとすでに授業は始まっていた。僕は彼女と後ろの空いている席に並んで座った。

「先生の言っていること、筆記できないでしょう? わたしが手伝ってあげます」

「え、あ、ありがとうございます」

 戸惑いながら彼女のほうを見ると、彼女の机の上には、教科書と共に、分厚い韓日辞書が置かれていた。日本語を勉強している学生なのだろうか。かなり勉強熱心な学生のようだ。教授の言葉に耳を澄まし熱心に筆記している。

「これプレゼントです」

 授業が終わると、真っ黒に埋まったA4用紙を差し出しながら彼女が言った。

 見ると、先ほどの授業の内容だ。難しい単語の横には小さい字で日本語の意味が書いてある。一生懸命筆記していたのは、僕のためだったのだ。こんなことをしていては彼女も自分の勉強に集中できないだろうに。感謝の思い以上に、不甲斐なさがこみあげる。

「ありがとうございます。あの……申し訳ないです」

 韓国語がうまく出てこなくて、しどろもどろになってしまう。

「実はわたし、大学新聞の学生記者なんです。このあと少しインタビューしていいですか?」

「インタビュー?」

「大丈夫です。簡単なインタビューですよ」

 唐突だったが、せっかく筆記までしてもらった直後だったので断り切れず、受けることにした。教室からほかの学生たちが退出すると、早速質問が始まった。

「この大学は好きですか?」

「好きです」

「嘘でしょう?」

 彼女はここでニッコリと微笑んだ。そして韓国での生活や韓国語の学習についてのいくつかの質問のあと、授業について訊かれた。

「あなたは留学生ですけど、授業に対して不満はありますか?」

「ないです」

「でも、先生の言っていることを筆記したりするの、大変じゃない?」

「それは……僕が一生懸命韓国語を勉強すれば問題ありません」

「わかりました。これからも何か困ったことがあればいつでもおっしゃってください」

 本当に簡単なインタビューだった。言いたいことはあった気がするが、その時の自分の語学力では言葉にならなかった。

 

「日本の大学から留学に来たユウゴは、『韓国語の勉強をずっと続けているが、授業は大変』『専攻授業ではほとんど聞き取りができない』と自身の苦しい心境を語った……」

 サチコが日本語に翻訳して記事を読み上げる。

「だって!」

「そんなこと言ってないんだけどな。自分が韓国語を頑張ればいいだけですって言ったはずなのに……」

 インタビューの2日後、僕とサチコは発行されたばかりの学生新聞を広げながら寄宿舎の食堂で夕食を食べていた。

「韓国語だからうまく伝わらなかったのかもね」

 記事全体としては、我が大学は留学生を受け入れる体制が万全ではない。改善の余地がある、という内容だった。

「そういえば、今日、また日本から交流留学生が来るってウニョンさん言ってたよ」

 学期が始まって間もなく1週間が経とうとしていたが、日本出身の学生はサチコ以外に知らなかった。島にある大学とはいえ、いくらなんでも少なすぎる。寂しくもあるが、でもそのおかげで人見知りの自分が、異性であるサチコともこうしてうまくやっているような気もする。

「そうなんだ」と言いながら学生新聞から顔を上げると、金髪で細身の男子学生と、小柄で黒髪の女子学生が目の前に立っていた。

「日本人? 良かったー、日本語できる人いて」

 金髪の男子学生は僕の隣にどしりと腰掛けた。

「もしかして……」サチコがそう言うと、

「あ、俺、今日、日本から来た留学生。タクヤです。で、こっちは同じ大学のナオ」

「ナオです。日本人なんですか?」

「あたしは在日なんだけど、こっちはオリジナルよ。ちなみにあたしはサチコです」

「ユウゴです」

 僕らは寄宿舎食堂のほぼ真ん中の席にいた。

「ちなみに歳は…?」タクヤが訊く。

「今年、22歳」

「あたしも」

「おっと! タメだね。イェーイ! 仲良くしようぜ。ちなみにナオは一つ下ね。なんか韓国にいると年齢とかに敏感になるよな」

 タクヤの声はでかい。しかも日本語だから余計に目立ってしょうがない。するとすぐ隣のグループに座っていた強面の男子学生が、日本人か? と訊いてきた。僕が弱気にそうですと答えると、すかさずタクヤが、

「はい。今日、日本からやってきました。まだまだ韓国語も下手でわからないことばかりですけど、いろいろ教えてください。兄貴!」

 そう流暢な韓国語で話して握手を求めた。これには強面も驚いたようで、「お、おう、よろしくな」と握手で応じた。

「韓国語めっちゃうまいじゃん」サチコも感嘆の声をあげる。

「一応、専攻なんで」

「2人とも?」

「わたしは経済です」

「韓国語はできるの?」

「ナオは英語も韓国語もペラペラだぜ。俺なんか英語は中学レベルだけどなあ」

「わたし、高校がオーストラリアだったんです。韓国語はタクヤさんと比べたらまだまだです」

 長身で声も大きいタクヤと比べ、ナオは小柄で静かに話す。色白でぱっちりした目元を見るとなんだか人形のようだ。そんな彼女が気になるのか、早速、先ほどの強面グループがナオに熱視線を送っている。

「ヒョン!」

 聞き覚えのある声で振り返ると、ピアスグループが食事を終えて部屋に戻ろうとしていた。

「ヒョン、日本の留学生ですか?」

「そうです。今日来ました」

「ア、ア、ワタシワ イ・ジソプ デス」

 ピアスは片言の日本語でそう言って2人に丁寧にお辞儀をすると、気恥ずかしそうに去っていった。

「やっぱ韓国人は礼儀正しいな。で、どういうつながり?」

「ルームメイト。いい子だよ。日本のロックが好きらしい」

「おお! ロック好きなら俺と気が合いそうだ。よっしゃ、仲良くなろー」そう言ってタクヤはキムチを口に頬張った。

「ロックが好きなんだ?」

「そうそう、俺さ、バンドやってるんだ。そんで韓国でミュージシャンを目指してる」

「韓国でミュージシャン?」

 驚いて訊くと、タクヤは目を輝かせながら続けた。

「そう。今、冬ソナブームもあって日韓の交流が増えてきてるじゃん? これはチャンスだぜ。この友好ムードに乗っかれば、日本人も韓国で活躍できるチャンスがあると思うんだ。聞いたところによると、韓国じゃあまりバンドが盛んじゃないらしいんだよ。バンドで食ってこうとするのがあまりいないらしい。だけど一方で、日本のロックはそれなりに人気もあるんだってさ。求められてるんだ、そういう音楽が。そこに、俺みたいな韓国語のできる日本人が飛び込む。インパクト大きいぜ。そのために、俺はまずこの済州島で韓国語をレベルアップさせ、将来のための人脈を築く!」

 タクヤはそう熱く夢を語った。

「楽器は何やってるの?」

「ベース! 最初はギタリスト目指してたんだけど、挫折して転身したんだよ。ほら、ギターって6弦あるけどベースって4弦じゃん? 俺、細かい指の動きが苦手でさ」

 ミュージシャンを目指しているわりにはそんな理由でベースを始めたのかと思っていると、「でも、残念ながら」と続けた。

「愛用ベースを韓国に持ってくることはできなかった」

「持ってくれば良かったのに」

「それが学校に禁止されちまってよ。俺、日本でも寄宿舎に入ってたんだけど、そこでも夜中まで練習したり、学内でゲリラライブやったりしてたらいろいろ注意されてさ。決定していた留学まで保留にされちまって。『留学先で音楽活動しない』『楽器は持ちこまない』なんて誓約書まで書かされたよ」

「実は、僕も」と、言いかけた時、タクヤは、自分のバンドが学内でどれだけ有名で人気があったかを話し始めた。

 実は僕も少しだけギターをやっていた時があった。もうだいぶ前のことだけど。

「じゃ、本気なんだね」

 サチコがタクヤの顔をまじまじと見つめながら言う。

「もちろん。そのうち韓国人のミュージシャンとバンドを結成してさ、曲も日本語バージョンと韓国語バージョンを作って、日韓両国でライブするんだ」

「かっこいいな」思わず声が漏れた。

「なんだ、ユウゴもなんか目標があって来たんだろ?」

「そうだね……。でも語れるほどじゃないよ」

「ふーん。サチコは?」

「あたしはまだ探求中かな。あたしさ、この島がルーツなの。だからこの島を知れば、自分のやりたいことが見えてくるんじゃないかと思って。ナオは?」

「わたしは、卒業したら観光業界で働きたくて。済州島って観光地だし、これから日韓の人の往来も多くなるだろうから、もうやみくも・・・・にここに決めました」

「やみくもにって……。なんか、適当にここに決めましたーみたいな言い方ね」

「わたし、ちょっと日本語ヘンなんです。高校が英語で、大学入ってから韓国語始めたせいかもしれないです……」

「あ、それ俺もわかるぜ。俺も韓国語始めてから日本語能力が低下してんだよな。たぶん、脳みそにある語学のキャパってもともと決まってて、そこに占める韓国語の割合が増えると同時に、日本語が追い出されてるんだよ。まっ、もともと日本語力がないだけかもしれないけどな。ブハハハッ」

 気がつくと周りにいた学生たちも部屋に戻り、僕らが最後まで残っていた。食堂のおばちゃんたちの視線が気になり、慌ててキムチチゲを掻き込んで食堂を出た。

「まっ、よろしくな」

 そう言って握手を求めるタクヤの後ろには無数の星々が輝いていた。それがなんだかライブステージのバックライトのように見えた。もしかしたらタクヤは、夢を語ることでもう夢を手にしているのかもしれない。正直、うらやましい。僕も彼のように、自分のことを、自分の夢を、自分の言葉で素直に語ることができたらどんなに素晴らしいだろう。きっとその時、僕もなりたい自分に変われるんだと思う。

「今度、部屋遊びに行ってもいいだろ?」

「もちろん」

 こうしてタクヤとナオと出会い、静かに始まった僕の留学生活はにわかに賑わい始めた。

f:id:ash-kiseki:20210731153955j:plain