11時過ぎ、僕らは
「さすがに入れないけどね」
ウニョンさんがそう言った時、車の中にデジカメを置いてきてしまったことに気がついた。取りに行こうかと思ったが、ドアを開けてもらうのも申し訳ないので、ただ海を眺めていた。日本ではもう長い間、見ることがなかった海。タクヤは酔いを醒まそうとしているのか、「うおー」と叫びながら砂浜を駆けていた。ウニョンさんとスンウォン兄さんは手をつないで海岸を歩きだした。
「なんか黙って海を眺めてるユウゴさんって絵になりますよ」
後ろからナオとサチコがやってきた。
「海の一部みたいな人だからねー」
「一部というか……僕が勝手に仲間だと思ってるだけだけど……」
僕が頭をかいていると、タクヤが戻ってきた。
「なあ、こういう海をバックにライブしたらかっこよくない?」
海からしたら迷惑な話だろうけど、同じ海でも、自分の夢を中心にして見ているタクヤと、ただぼんやりしている自分とではだいぶ見え方が違うようだ。
「それは海に聞いたほうがいいんじゃない? ねえ、ユウゴ?」
「きっと応援するよ。海は優しいから」
「海は優しい?」
そう言ってタクヤは足元に落ちていた石ころを海に向けて投げた。数回跳ね上がってそれは海に溶けた。
「時に激しく、時に優しく、それが海じゃねえの? そう考えると海ってミュージシャンだな。ハードロックにもなるし、バラードにもなる。なあ、俺と海ってなんか似てないか?」
「あ、でもさっきサチコさんはユウゴさんのことを海の一部みたいな人だって言ってましたよ」
「じゃあ俺たち似た者同士だな。ブハハハッ」
タクヤがいきなり肩を組んできた。たまにはこういうスキンシップも悪くない。海の前ではなんだか解放された気分になれる。
「何、急に仲良くなってんの?」
ウニョンさんカップルが戻ってきた。
「いやー、今日はウニョンさんのおかげで楽しいなー」
そう言ってタクヤは僕と肩を組んだままスキップを始めた。まだ酔っているのだろうか。
「せっかくだからみんなで写真を撮ろう」
スンウォン兄さんの提案で僕らは集合写真を撮った。ロックミュージシャンのような男が地味な僕と肩を組んでいる。もし、日本にいたなら、日本で出会っていたなら、きっと僕らは話すことさえなかったかもしれない。
もうすぐお昼だったので、近くにあった海辺の食堂であわび粥を食べた。優しい味だった。二日酔いのタクヤも黙々と掻き込んでいだ。
「最高」
「それにしてもあんたはなんでそんなに声がガラガラなの?」
ウニョンさんからはすっかり「あんた」呼ばわりされている。
「実は昨日、韓国初のカラオケオールしてきましたー」
「やっぱり。そんなことだろうと思ったよ。学生ならもっと勉強しなさいよ」
「しっかり韓国語の歌も勉強してきましたよ。文化交流、文化交流」
そう言って水を一気に飲み干した。
「みんな、留学生活は慣れましたか?」スンウォン兄さんが僕らに問いかけた。
「ウニョンさんがいろいろ助けてくれるのですぐに慣れました」
サチコは気の利いたことも韓国語で言える。さすがだ。
「それは良かった。僕にも何かできることがあったらなんでも相談してよ。僕は今、獣医学科の4年生なんだ」
獣医学科。日本でもあまり聞きなれない学科だった。
「じゃあ、将来は動物病院の先生になるんですね」
「試験があるけどね。僕はもともと済州島出身じゃないんだけど、獣医になりたくてこの大学に入学したんだ。全羅道って知ってる? そこが僕の故郷だよ」
「今は寄宿舎ですか?」僕が訊いた。
「去年までは寄宿舎にいたんだけど、今は大学の近くで一人暮らし」
なるほど。たしかに寄宿舎暮らしだと、ウニョンさんと過ごす時間も限られてしまう。
「今度、うちに遊びに来てよ。日本の映画でも一緒に見よう」
「男だけね。女はダメ」
ウニョンさんは厳しい。
昼食を食べ終え、僕らは
「済州島は火山島だから、こうした洞窟がたくさんあるの。ちょっと歩くけど頑張って」
そう言ってウニョンさんはスンウォン兄さんと先頭を歩き始めた。
説明によると、そこは今から約30万年前から10万年前に形成された溶岩洞窟だという。急な階段を下って地底に降りると、ひんやりとした空気が頬を伝った。
「なんかお化け屋敷に行くみたいですね」
ナオが心もとなさそうに辺りを見渡す。
「そうね。霊的なものを感じる」
火山から噴出した溶岩によって形成された神秘的な景観は、地下に生々しく息づいていた。所々がライトアップされたそれは、まるでネオンに輝く地下帝国だ。
「なあ、この洞窟をバックにライブってのも悪くないよな」
夢見がちなロッカーにとってはすべてが自分を輝かせる舞台に見えるらしい。
「でもここだと道が狭いしお客さんがそんなに入れないですよ」
「それじゃダメだな。俺の舞台には小さすぎる。俺はビックになってやるんだ。ブハハハッ」
ただでさえ大きいタクヤの声は数10万年前の溶岩洞窟に反響した。前を歩いていた韓国人のおじさんたちがこちらを睨む。
「タクヤ静かにね」
ウニョンさんに注意されると、
「はい! わかりました、先輩様!」と軍人のような韓国語で答えた。
周囲を取り囲む溶岩鍾乳や溶岩石柱は、そんな僕らを気に掛けることなく、ただひたすらそこに存在していた。数十万年前と同じように。
次の目的地である
「うわー、楽しみ」
ナオは少女のように目を輝かせた。
まるで宇宙から落下した隕石が、そのまま地球に居座ってしまったかのような光景に、僕は息をのんだ。
「すげーけど、これ登るのかと思うとちょっと足がすくむな」
隕石は二日酔いのロックミュージシャンをひるませる威光をも秘めている。
「往復で1時間くらいかな。ちゃんと階段もあるし、子どもでも登れるくらいだから大丈夫。上から見た景色がすごくきれいだよ」
ウニョンさんカップルが前を歩き、僕らが続いた。5千年ほど前の海底噴火によって生まれたこの景観は、済州島を代表する観光地の一つになっていて、海外からの観光客も何人か見かけた。ただ日本人にはまだ遭遇していない。そう言えば、済州島に来てからというもの、留学メンバー以外の日本人には会っていない気がする。
「済州島に来てから日本人ってほとんど見ないな……」
「たしかにあんまり見ないね。空港では結構見かけたんだけど、みんなどこ行ってるんだろうねー」
僕の独り言のようなつぶやきにサチコが反応した。
「ゴルフをしに来る人も多いらしいですよ。済州島ってゴルフをするのに最適な環境だって聞いたことあります。自然の地形をそのままゴルフ場に活用できるんですって」
「さすが、観光業界志望はよく知ってるねー」
ゆるやかに曲がりくねった階段を登っていくと次第に海が視界に入ってきた。頂上ではいったいどんな景色が見えるのだろうか。
「おーい、もっとゆっくり行こうぜ」
後ろからタクヤが弱音を吐く。よほど二日酔いがひどいのだろう。
「大丈夫か?」
ウニョンさんと一緒に前を歩いていたスンウォン兄さんがタクヤの隣まで戻ってきて、
「男ならできる!」と、韓国語で活を入れた。
タクヤは、「元気があれば、何でもできる!」と日本語で叫び、
「ゲンキ? オゲンキ デスカー!」とスンウォン兄さんが『Love Letter』で応酬した。
そして、2人は肩を組んだまま先頭まで走って行った。
「まったく」
ウニョンさんはそんな2人をあきれたように見つめていた。
「でも、たまにはユウゴもあんなふうになるのも大事だよ」
僕がウニョンさんの隣まで追いつくと、そう声をかけてきた。
「……そうですよね」
「うん。日本語で『必死に』って言うのかな? せっかく留学に来てるんだから。自分からもっと必死に行動しないと何も変わらないよ」
その一言は、僕を長距離マラソンの最下位ランナーのような気分にさせた。自分の夢や目標に向かって走るタクヤ、サチコ、ナオはずっと先にいる。
「ウニョンさんは日本に留学して良かったですか?」
なぜか次に口をついて出てきたのはそんな質問だった。
「良かったよ。一番良かったのは人間関係の幅が広がったことかな。韓国にいたらきっと話さなかったなって思う人たちとも仲良くなれたしね」
それは自分も感じていたことだった。留学生の人数が少ない分、助け合わなければならないこともある。また、日本にいたらその他多数に埋没してしまうような自分も、ここでは数少ない日本人留学生の1人として嫌でも注目されてしまう。当然、人間関係の横幅は広がっていくだろう。
「じゃあ、後悔してることはありますか? もっとこうすれば良かったとか……」
「あるよ。だからこうしてここにいるんだよ」
そう言いながらウニョンさんは足元から顔を上げた。
日本の文化に興味があって日本に留学したウニョンさん。日本の大学で日本人の友人を作れずに寂しい思いをしたウニョンさん。今、こうして大学の国際課の職員となり、日本人留学生のサポートをしてくれているウニョンさん。
もちろん僕らのためだという思いもあるかもしれないが、それ以上に、それはやはり彼女自身のためなのだ。日本の文化に興味を持って日本語を勉強し始めた、かつての自分自身のためにも、彼女は今、こうして必死になって自分から行動しているのだ。そんな彼女の思いが今日僕らをここに連れてきた。
「何してるんだ、早く来いよ!」
彼氏のスンウォン兄さんがウニョンさんを呼ぶ。
「あー、うるさい!」
気の強い彼女らしく、恋人の呼びかけも一蹴する。後ろを振り返ると、サチコとナオは、周りの写真を撮りながら楽しんでいた。
「サチコ、ナオ、一緒に行こう!」
そして、階段を下ったウニョンさんは、2人の手を取って歩き出した。