僕と済州島の物語

2002年に済州島でホームステイ、 2005年に済州島に留学、2013年に済州島で国際結婚、2015年に済州島で長男誕生。 そんな僕と済州島の物語です。

済州島留学物語 第8話【春7】

 社会学の授業は相変わらず理解できないまま進んでいた。学生新聞記者の女子学生と同じ授業は2つあった。当初、筆記の手伝いをしてくれていたが、彼女が自分の学習に集中できなくなると思い、「もう大丈夫です」と伝えたのだが、その伝え方がまずかったのか、彼女も僕に声をかけてくれることがあまりなくなった。学科内での僕の存在感は薄く、いてもいなくても誰も気づかないんじゃないかと思うほどだった。

「今度、MTをやるんだけど来ます? みんなと仲良くなれますよ」

「MT?」

 学生記者が久しぶりに声をかけてきた。

「みんなで泊まりながらお酒飲んだり遊んだりするんです。日本の大学ではやらないですか?」

 ゼミ合宿のようなものだろうか。これは負担だ。行きたくない。

「みんな行くんですか?」

「はい。あ、あの人も来ますよ。ドゥヒョン先輩」

「ドゥヒョン先輩?」

「知らないんですか? 今学期は休学していたんですけど、在日韓国人の学生です。ちょうど良かったですね」

 気が進まなかったが、これを欠席すると今後の留学生活に支障をきたしそうだったので、とりあえず承諾することにした。在日韓国人の先輩というのも気になる。早速、サチコに連絡し、図書館のベンチで会うことにした。

「MT? おー、行ったほうがいいよ。うちの学科は学期が始まってすぐにあったんだけどなかなか面白い経験になるよ」

「酒を飲んだり遊んだり?」

「そう。まさにそれ。いろいろ勉強になるよ。行っときな」

「あと、ドゥヒョン先輩っていう在日韓国人の人、知ってる?」

「ドゥヒョン……あ、噂で聞いたことある。今、休んでる人でしょ?」

「うん。その人もうちの学科らしいんだ。それで、そのMTに来るって」

「へー、そうなんだ。あたしもよくは知らないけど、ちょっとコワい人らしい」

「コワい?」

「ワルってことでしょ」

 そう言ってにやけたサチコが憎らしい。そう言えば、あの学生記者も多くを語らなかったが、何か警戒しているような感じだった。やれやれ、と思いながらも、いつもこういう場面ではウニョンさんの助言が浮かぶ。「積極的になれ」と。

 

 そして1週間後、僕は足を震わせながら、寄宿舎の車寄せに立っていた。

学生記者によると今回のMTは学科の3年生だけが参加するとのことで、バスの貸し切りなどは行わず、車を持っている学生たちが手分けして送迎を担当するという。

 僕がこうして緊張しているのには理由がある。僕の送迎を、例のドゥヒョン先輩が担当することになっていたからだ。まだ会ったこともない。連絡先も知らない。ただ、学生記者から「ドゥヒョン先輩が寄宿舎前に迎えに行く」と。それだけ聞いていた。

 お泊りだというので、下着と歯磨きセットだけは準備した。ただ旅行用のリュックがなかったので、カバンはいつもの授業用のカバンだ。重い。中を見たら、いつもの図書館勉強セットがそのまま入っていた。まいったな。約束の5分前だったので今から置いてこようかどうか迷っていると、オートバイが音を立てながら寄宿舎の車寄せに入ってきた。「迎えに来るってまさかオートバイじゃないだろう」と思ったが、僕は反射的に姿勢を正していた。

「イルボンサラン(日本人)?」

 男はヘルメットを取ると、立っていた僕に声をかけた。

「はい。日本から来ました」

 僕も韓国語で答えると、男は顔色一つ変えないまま、

「よろしく」と日本語でクールに言う。やはりそうか。

「ドゥヒョン……先輩ですか?」

「おう。なんかさ、ここ自販機ねえの?」

 そう言って、バイクを隅に駐車すると、ずかずかと寄宿舎の中に入ってきた。

「あります。こっちです」

 僕は慌ててエスコートする。政治家の秘書みたいに。ドゥヒョン先輩は短髪の黒髪で、無精ひげを生やしていて、大柄だった。

「コーラでいいか?」

「え、あ、はい。いいんですか。ありがとうございます」

 清掃員のおばさんが、日本語で話す僕らを珍しそうに眺めては移動した。ドゥヒョン先輩はコーラを一口飲んでから、たばこに火をつけた。

「名前は?」

「ユウゴです」

「いつ来たの?」

「2月末です」

「韓国語は?」

「まだまだです。なかなか上手にならないんです」

「ふーん。泣いても、笑ってもやるしかねえよ。焦ったってしょうがねえ」

 何歳くらいなのだろうか。気になることはたくさんあったが、軽口を叩いてはいけないような貫禄がある。

「休学されてると聞いたんですけど、復学するんですか?」

 口に出してから無礼な質問だったかもしれないと冷や汗をかく。しばらく無言が続くと、ドゥヒョン先輩は吸い込んだ煙を思い切り吐き出した。

「あとで酒でも飲みながら話そうぜ。時間ねえし」

 そう言ってまだ半分以上も残ったたばこをもみ消すと歩き出した。僕も半分以上残ったコーラを無理やり身体に流し込み歩き出した。

 

 夕方の海岸通りは格別に美しかった。ドゥヒョン先輩はそんな済州島の景色には目もくれず、ひたすらオートバイを走らせた。5月末の生暖かい風に吹かれながら。なんだかドゥヒョン先輩の頑健な背中を見ていると、これからのイベントで何が起ころうとも無事に過ごせそうな気がした。

 市街地から30分ほど走ると目的地の宿泊施設に到着した。海岸沿いの小奇麗なペンションだ。すでに20人ほどの学生たちが集まり、海辺に面した庭でバーベキューを始めていた。

「ドゥヒョン先輩!」

 授業で見かけたことのある双子の男子学生が同じ顔をして駆けよってきた。

「おう、久しぶりだな」

 双子にもタメ口で話すということは、ドゥヒョン先輩は長老格なのだろうか。双子は僕に対しても「ユウゴサン、コンニチワ!」と満面の笑みで初めて声をかけてきた。今日は双子も馴れ馴れしい。アルコールが入っているせいだろうか。

 周りの学生たちも集まってきては、ドゥヒョン先輩とあいさつをかわしている。僕はその後ろで影のようにひっそりと息を殺す。

「ユウゴさん、アンニョン~」

 お酒が入って少し赤くなっている学生記者もやってきた。

「アンニョンハセヨ。今日はありがとうございます」

「もうこっちで飲んでますよ。一緒に行きましょう」

「え、あ、あ」

 気づいたら15人ほどが腰掛けられるメインテーブルに連れてこられた。大半の女子学生と男子学生が数人いた。その中に、同じ授業は取っていないものの、何度か見かけたことのある眼鏡の学生が声をかけてきた。

「アンニョンハセヨ。学科の学生会長です」

 そう言って僕にも焼酎用のグラスを手渡し、自ら注いでくれた。以前、ウニョンさんが彼氏のスンウォン兄さんに、「男なら酒強くなくちゃ」と諭していたのを思い出し、「ありがとうございます」と言いながら一気に飲み干した。

「おー!」

 歓声が起こる。

「アンニョンハセヨ。はじめまして。日本から来たユウゴです。よろしくお願いします」

 周りの喧騒に負けないよう少しお腹に力を入れて声を出した。これも酒の力だろうか。大人数を相手に自然と韓国語が出てきた。よし、この勢いで今日は「積極的に」行こう。気がつくとまた焼酎が注がれ、そしてそれも一気に飲み干した。学生記者が少し離れた席から声をかける。

「ユウゴさん。お酒強いですね。大丈夫ですか?」

「大丈夫です。おいしいです」

 その一言にまた歓声。気を良くし、注がれるたびに1人でごくごく飲んだ。

「ユウゴさん。酒を飲むときは、周りにいる人たちに『乾杯』と言ってみんなと飲むもんですよ。1人で黙って飲むのはダメ。あと、年上の人に酒を注ぐときは片手を添える。それが韓国の礼儀です」

 学生会長だ。たしかに韓国の飲み会にはマナーがあることは知っていた。だけど、自分は日本人だし、多少知らなくても許してくれるだろうと油断していた。歓声に調子に乗りすぎたかと少し落ち込んでいると、

「ユウゴ!」

 後ろで僕を呼ぶ声がして振り返ると、強面のドゥヒョン先輩が手招きしていた。

「おい。こっちで肉焼いてるんだから、おまえも手伝わなきゃダメだろ」

「すいません」

「日本人だからとか、留学生だから、とか関係ねえんだよ。代われ」

 そしてトングを網に置いてテーブルグループのほうへ行ってしまった。まずい。僕が調子に乗っている姿を見て腹を立てているのだろうか。それもそうだ。久しぶりにみんなのもとに戻ってきたドゥヒョン先輩が肉を焼いてるそばで、僕は何も考えずに1人で焼酎をぐびぐび飲んでいたのだから。

 孤立していた学科で出会った貴重な存在。うまくやっていくことができるだろうか。そんなことを思いながらしゅんとしていると、隣の網で肉を焼いていた2人組の男子学生が、「ドゥヒョン先輩と仲いいの?」と訊いてきた。

「いえ、今日はじめて会いました」

「そうか。いい人だよ。仲良くしなよ」

「はい。もしかしてちょっと怖い人ですか? 噂を聞きました」

「怖い?」そう言って2人組は微笑んだ。

「怖いっていうか……。昔こんなことがあったんだよ」

 

 その日、ドゥヒョン先輩は授業を終え、バスに乗ってアルバイト先に向かっていた。なんとなく外の景色を眺めていると、降りる手前の停留所近くの路地で、高校生が倒れている現場を目撃した。ドゥヒョン先輩は慌ててバスを降り、その現場に直行する。そこでは、男子高校生6人が、1人の学生の髪を引っ張ったり殴ったりしていた。ドゥヒョン先輩はとっさに止めに入る。しかし、男子高校生は止めに入ったドゥヒョン先輩に対しても殴りかかった。

 

「でさ、1人でその男子高校生6人をボコボコにしたんだよ。たまたまその高校に、うちの学科の先輩の妹がいて、話はすぐに広まった」

「すごいですね。もしかしてそれで休学に……?」

「いや、それは関係ない。なんか学費を稼ぐとか言ってたと思うよ。おい、肉が焦げそうだ」

 見ると、僕の網のサムギョプサルが焦げ茶色に変色しかかっていた。慌てて肉を取り出し、テーブルへサービングする。なんだ、ドゥヒョン先輩はワルなんかじゃないんだ。いや、待てよ。そういう現場にも物怖じせず、ケンカも強いってことは、昔、暴走族だったとか、そんな壮絶な過去があるんじゃ……。そんな不安を抱えながら、また肉を焼きに戻ろうとすると、

「みんな、こいつのことよろしくな。韓国語教えてやってくれよ」と、ドゥヒョン先輩がみんなに声をかけてくれた。良かった、やっぱりワルなんかじゃない。

 先ほどの網に戻るとまた別の学生が肉を焼いていた。

「留学生なんだから、大丈夫ですよ。みんなと一緒に食べてきてください」

「でも……」

 これで交代してテーブル席に戻ったら、ドゥヒョン先輩に叱られそうな気がして気が引けた。また、僕としてはこのままメインテーブル席から離れた場所で、静かに肉を焼いているほうがずっと気楽だった。先ほど学生会長に酒席でのマナーを注意された影響もあったかもしれない。徐々に盛り上がってきているあの輪に入っていくのが怖い。

「さあ、ほら」

 そう言って肉を焼いている学生が僕の背中を押し、しかたなくテーブル席へ。空いているのは学生会長の隣だけだった。僕は遠慮がちに腰を降ろす。学生会長が焼酎グラスに焼酎を注いでくれる。そして先ほどの忠言を思い出す。

 皆、それぞれ近くに座っている人たちと盛り上がっていて会話に入っていけない。誰かに「乾杯」の声をかけることもできず、かと言って自分の焼酎に口をつけることもできず手持ち無沙汰になる。ドゥヒョン先輩のほうをちらりと見ると、周りの学生たちと楽しそうに話していた。目の前には誰が口をつけたかわからない皿と箸とフォーク。食べ物にも手をつけられず、それからどれくらいの時間を過ごしただろう。その誰のものとも知らぬ箸を手に、何かを食べている振りだけをしていた。少し前まで同じ場で調子に乗り、ぐびぐび焼酎を一気飲みしていた自分がみじめになってくる。

「このあと、ゲームやるからお酒は無理しないでくださいね」

 学生記者が部屋に何かを取りに行きながら僕に声をかけてくれた。ゲーム……? ますます憂鬱になっていく僕の表情を見たのか、ドゥヒョン先輩が席を立って僕のほうにやってきた。

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