僕と済州島の物語

2002年に済州島でホームステイ、 2005年に済州島に留学、2013年に済州島で国際結婚、2015年に済州島で長男誕生。 そんな僕と済州島の物語です。

済州島留学物語 第9話【春8】

「おまえ、全然食ってないだろ?」

 そして、新しい皿と箸を持ってきて、どこからか肉と野菜をかき集めてくれた。

「ありがとうございます」

「ちょっとあっちで休もうぜ」

 僕らは庭に1本だけ聳え立っていた樫の木の下に腰掛けた。

「こういう集まりは初めて?」

「はい。もっとみんなと仲良くなれたらいいなとは思うんですけど、韓国語もうまく話せないし……輪に入っていけなくてちょっと孤立してます」

「おまえ、それは言葉の問題とかじゃねえぞ」

 韓国語で盛り上がるみんなの声がどこか遠くから流れてくるBGMのように聞こえてくる。

「俺って在日でさ。名前も韓国名のままで日本の学校通ってたんだよ。福岡の田舎のほうだったからそれがまた珍しいんだよな。学校じゃいつも目立ってた。だけど、俺はそのせいでいじめられたり、からかわれたりしたことは一度もなかったな。俺自身が負けず嫌いだったから、勉強も運動も人一倍やってきたし」

「努力家なんですね」

「俺が名前のせいで悔しい思いをしたのはたった1回だけだな」

 そしてドゥヒョン先輩はたばこに火をつけた。

 

 ドゥヒョン先輩の話によると、ドゥヒョン先輩の父親は子どものころに、自分の親と一緒に日本にやってきた。戦後間もないころだ。父親の父親、つまりドゥヒョン先輩の祖父は、日本中を回り、自分の商売に適した地を探した。それが韓国にもほど近い福岡だった。祖父は日本で生活の基盤を作ると、息子であるドゥヒョン先輩の父親に事業を譲り亡くなる。

 ドゥヒョン先輩の父親は、子どものころに日本に来たこともあり、韓国語よりも日本語のほうが上手だった。また、韓国語の話せない在日韓国人の母親と結婚したため、家庭内では日本語だけを使っていた。ただ、韓国人としてのプライドが高く、1人息子のドゥヒョン先輩には韓国名をつけた。

「俺もあえて韓国語を勉強する気はなかったんだけど、日本の大学に入ってすぐのころ、親父に勧められてソウルにホームステイに行ったんだ。でもそこがまったく日本語のわからない人たちで、俺も韓国語わからないし、コミュニケーションとるのに苦労した。そんな時、そこんちの親父が、『韓国人の名前のくせに韓国語がわからないなんて』ってぼそっとつぶやいてるのを耳にしてな」

 そこでドゥヒョン先輩はテーブル席のほうから缶ビールを2つ持ってきて僕に1つ手渡した。

「要するにそれが、悔しかったわけよ。俺自身がね」

「ビールありがとうございます」

 僕が手をつけずにいると、「飲めよ」と言って、ドゥヒョン先輩も飲み始めた。

「それがきっかけで韓国語の勉強を始めたんですね」

「そう。そのために俺は大学を辞めた。親父と大喧嘩してね」

「そうなんですか? それで韓国の大学に入りなおしたってことですか?」

「結果そうなんだけど。俺も日本ではそこそこの大学に入ってたから親父は大反対してな。韓国語を勉強するのは大賛成のくせして、日本の大学を辞めることには大反対。親父なんて日本社会でいかに成功するかしか頭にねえから、いくら韓国語の勉強のためとはいえ、名のある日本の大学を退学するのは世間体的に良くないと思ったんだろうな。で、俺はさっきも話したように負けず嫌いだからさ、『自分の責任で行く』って宣言して家を出たわけ」

 いや、いくら負けず嫌いでもそこまでするなんてやはり只者ではない。

「半年くらい日本の建設現場で金を貯めてソウルに行ったよ。それでソウルで2年間韓国語を勉強しながら、またバイトで金を貯めて、この大学に入学した。でもやっぱり金がなくて学費が払えなくなる時があってな、そういう時は、日本に一時帰国して金を稼いでるってわけよ。今はちょうどそのタイミング」

「じゃあ今は日本で仕事しているんですか?」

「まあな。ちょうど大学で手続きがあって1週間くらいこっちにいるんだけど、休み明けからは正式に復学する」

「ドゥヒョン先輩は済州島が故郷になるんですか?」

「いや、俺のところは父方も母方も京畿道のほう。だから、大学もソウルで考えてたんだけど、済州に1回、遊びにきた時の印象が良くてな。福岡と近いからかな。なんか、落ち着くんだよな」

 そう言ってたばこの煙を大きく吐き出した。5月末とはいえ、夜になると少し肌寒かった。

「おまえはどうなん? なんで韓国に留学しようと思った?」

「それは……」

 その時、学生記者が僕らに向かって「さあ、ゲーム始めますよ!」と部屋の中から楽しそうに叫んだ。

 

 3部屋あるうちの大部屋で、約20人が円形に座った。中央にはお菓子とチヂミと焼酎が置かれていた。

「さあ、31ゲームを始めましょう。ルールはみんな知ってますよね?」

 学生会長の司会で31ゲームなるものが始まろうとしている。当然、僕はルールを知らない。

「数字を順番に言っていくんです。1人、3つまで数字を言えるんですけど、31を最後に言った人が負け。グラスのお酒を一気飲みするんですよ」

 隣に座った学生記者が説明してくれるがよく理解できない。でもゲームは始まった。

「1、2、3」

「4、5」

「6、7、8」

 順番に波が回ってくる。なるほど。31に当たらなければいいわけか。

「17」

 僕も順当にこなす。このままのペースなら自分に回ってくることはなさそうだ。

「29、30……」

 ドゥヒョン先輩はそこで一呼吸おいて、「31!」と叫んだ。歓声が起こる。

「さすが!」「男だ!」

 ドゥヒョン先輩の次にはあまりお酒の強くなさそうな女子学生が座っていた。そうか。その女子学生に飲ませないために、自ら31を受け持ったのだ。やはり只者ではない、ドゥヒョン先輩。

 そしてドゥヒョン先輩の一気飲みのあとゲームが再開されると、もし、自分が、先ほどのような状況に直面したらどうなるだろう、と考えた。自分の次は学生記者だ。でも、彼女はお酒が強そうだし、余計な配慮は不要かもしれない。しかし、もしかしたら男性は女性に飲ませないようにするのがこのゲームのマナーなのかもしれない。もうマナーで注意されるのはごめんだ。そんなことを考えて怯えながらゲームは3往復した。幸い、そのような状況にはならなかった。このままゲームも終了して就寝時間になればいいのにと思っていると、

「今度はちょっとルールを変えてみたらどうですか? たとえば31にあたった人はチャンギジャランするってのはどうです?」

 双子のどちらかが提案すると「えー」という悲鳴が起こる。しかし、学生会長は「面白そうですね。やってみましょう!」と受け入れた。

「チャンギジャラン……?」

 僕が隣の学生記者に尋ねると、

「うーん、なんて言うかな。歌をうたったり、誰かのマネしたり、自分が上手なものを自慢するのよ。うわー、絶対ヤダ」と顔をしかめた。

「歌? モノマネ……?」

 全身の血が一気に引いていった。僕はカラオケにもほとんど行かないし、モノマネだってしたことがない。ほかに人前で何か自慢できるようなものなんて何もない。何がなんでも、31を避けるしかない。

「1、2」

「3、4、5」

 何も心の準備ができないままゲームは始まった。

「20」

「21、22」

「23」

 途中から数字が増えるペースが遅くなる。このままだと、危ない。

「27、28、29」

 僕の隣の女子学生が数字を一気に三つ増やし、29で止まった。助かったと思った。自分が30で止まれば、31は避けられる。そして、学生記者が31だ。

「やだー」

学生記者の悲鳴が耳に入った瞬間、先ほどのドゥヒョン先輩の「31!」を叫んだ姿が頭をよぎる。

「30……31!」

 気づいたら31を叫んでいた。歓声が起こる。僕は助からなかった。

「さあ、ユウゴさん。歌でもなんでも自慢してください!」

 学生会長が楽しそうに僕を立たせた。

「これも必要かな?」

 そうして焼酎の空き瓶にスプーンを差し入れ、マイクに見立てる。

「日本の歌でもいいよ!」

 誰かの声が聞こえる。僕は即席マイクを受けとる。拍手が起こる。僕を見つめるたくさんの瞳に顔がひきつる。一瞬、ドゥヒョン先輩と目が合う。そしてドゥヒョン先輩が高校生6人をボコボコにしたという事件が頭をよぎった瞬間、僕はまだ誰も手を付けていなかった焼酎瓶360ミリリットルを一本握っていた。アルコール度数21度の済州島の焼酎『漢拏山ハルラサン』だ。

「これを全部、一気飲みします!」

 そして勢いよく蓋を開け、口から全身に流しこんだ。冷えていない生ぬるいアルコールが体中を駆け巡る。

「おお!」という歓声と拍手が沸き起こる。気持ち良い。これは、水だ。喉が渇いているから水を飲んでいるんだ、と言い聞かせた。

「おい! 無理すんじゃねえぞ!」

 ドゥヒョン先輩の声が聞こえて一旦、口を離すと、まだ3分の1程度が残っていた。「大丈夫か?」「よくやった」「もう少しだ」周りからいろんな声が聞こえてくる。でも、まだ残ってる。飲み切ってやる。そうして、再び焼酎瓶を傾け、頭をあげた瞬間、身体が異常によろめき、隣にいた学生記者に支えられた。

「水だ! 水を飲め。休ませるんだ」

 ゲームは中断し、僕は隣の寝室に強制的に運び込まれた。

 

「おい、ああいう飲み方が一番危ねえんだぞ」

 ドゥヒョン先輩が心配そうに部屋に入ってきた。

「すいません。歌とか、特技とか何もなくて、気がついたら飲んでました」

 少しずつドゥヒョン先輩の顔が揺れ始める。アルコールが暴れ始めたらしい。

「あんなのは特技でもなんでもねえよ。ヘタクソでも何か歌ってりゃ良かったんだ。逆に盛り上がってたぞ」

「でも、そういうのに慣れてなくて……。人の前で何かするのが苦手なんです」

「なんだ? おまえはカッコイイ歌でも歌って人気者にでもなりたいんか? 結局、おまえは自分を守ろうとしかしてねえんだよ」

 そう言って部屋を出ていった。コップ一杯の水を飲み横になる。地震のように部屋が上下に大きく揺れている。目を開けているのが辛くて瞳を閉じる。隣の部屋からは、きっと31番にあたったと思われる男子学生が、夢中で何かを歌っている。温かい拍手と歓声でそれを見守るみんなの笑顔が浮かんだ瞬間、自然と涙が頬を伝った。

 いつもそうだ。どうして僕はこうなってしまうんだろう。もうすぐ1学期も終わろうとしているのに、僕は何も変わらない。そう、自分を守ろうとしかしていないんだ。守るべきものもないくせに。涙が止まらなかった。どこにいても変わることのない苦しみは僕を絶望させた。あのころのあの痛みは、終わることなく、途切れることなく、今もこうして続いている。

 そう感じた時、《星をうたう心》という尹東柱の詩の一節が頭をよぎり、ふと目を開け窓の外を見た。

 夜空に浮かぶ月が見えた。済州島への留学前、学費を稼ぐためにコンビニの夜勤をしながら見たあの月と同じ月だ。僕は何度あの月を見上げながら、この留学への期待に胸を高鳴らせたことだろう。夜空に浮かぶ月を介してその胸の高鳴りがよみがえってくる。あるいはそれは身体中を駆け巡るアルコールのせいだったのかもしれない。ただ悔しさに濡れた涙が、夜空に舞う風と一体となってとめどなく流れ続けた。

f:id:ash-kiseki:20210801122322j:plain