分厚い雲に覆われた空は、静かに大地を濡らしていた。
期末試験を終えた僕は、折り畳み傘をカバンから出し、図書館に向かった。6月中旬。どんよりとした空模様とは対照的に僕の心は晴れ渡っていた。いよいよ2カ月半にも及ぶ夏休みが始まるのだ。
ロックミュージシャンを目指すタクヤは、「活動再開だ」と宣言し、期末試験を終えるや一足先に日本に一時帰国した。留学中は音楽活動を禁止されているため、早く楽器にさわりたくてうずうずしているのだろう。ソウルに恋人のいるサチコも夏休みはソウルで過ごすとのことだったし、観光業界志望のナオは、まず釜山の大学に留学している交換留学生の友人と釜山で過ごしたあと、ソウル近郊で短期間のホームステイを経験することになっていた。僕にはどこか遠くへ行く予定はなかったが、何より2カ月半の自由な時間が夢のようだった。
図書館1階のいつもの席を確保し、真新しいノートを広げる。
図書館は日に日に人の往来が少なくなり閑散としていた。試験を終えたばかりの学生は図書館になど足を向けたりしないのだ。
まだ試験が残っているのだろうか、何人かの学生たちが黙々と勉強をしていたが、それは炭酸の抜けた生ぬるいコーラのように中途半端な光景に見えた。時おり出入り口から漂ってくる梅雨の湿った生暖かい風のせいかもしれない。
「さて」とつぶやき、僕はペンを執る。
「韓国語能力試験6級合格」と最初のページに大きく書いてみた。
それは、この留学での僕の最大の目標だった。韓国語能力試験というのは韓国政府が公認している試験で、6級が最難関だ。その6級に合格できれば、こんな自分でも、その資格を生かして就職先を勝ち取り、社会人としてやっていくことができるはずだ。そんな期待があった。試験は9月下旬。目標の試験に合格するためには、この夏が勝負だ。
使い古した単語帳のメモを、新しいノートに書き写していった。真っ白なノートが、発展しゆく街並みのように隙間なく埋まっていく。
僕にとっての夏が、僕なりに熱い夏が始まる。
「ユウゴさん……?」
後ろから誰かが僕を呼んでいた。振り返ると前の部屋のヨンジュンだ。僕の机に開かれた韓国語の単語ノートを見つめていた。
「もし良かったらコーヒーでもどうですか?」
かつて彼の口から聞いた「日本嫌い」発言が脳裏を巡り気後れしたが、訳もなく断るのもはばかられ、「はい、行きましょう」と承諾していた。
降りしきる雨を見ながら、外にある図書館ベンチに腰をかけた。
「僕もよく図書館には行くほうなんですが、毎日、ユウゴさんを見ますよ。勉強熱心ですね」
「はい。韓国語の勉強をしなきゃいけないので……」
ヨンジュンは黙ってコーヒーを飲んでいた。
「ユウゴさんはいつも1人で勉強していますね。ほかの日本の留学生は、韓国人の友だちとも遊びに行ったりしてるようですが」
「僕は友だちが少ないんです」
そう言って自虐気味に微笑んだ。
「あの、このあと、寄宿舎の体育室で、仲間たちとバドミントンする予定なんですけど、一緒にどうです?」
意外な誘いにやや拍子抜けした。
「たまには身体を動かしたほうがいいですよ」
「じゃあ行きます」
責められていないという安堵からか、考える間もなく返事をしてしまった。
「5時に体育室の前で会いましょう」
そう言ってヨンジュンは行ってしまった。
突如入り込んだ予定に、期待に溢れた自分だけの夏休みの出鼻をくじかれたようでもあったが、一方で胸のつかえが取れていくようでもあった。彼とはあの日、後味の悪いあいさつを交わしたきりだったから。だが、よく考えてみると、一緒にバドミントンをする仲間たちというのは、彼の「日本嫌い」の仲間たちじゃないだろうか。しかも場所は体育室……。なんだか不良連中から屋上に呼び出されたいじめられっ子のような気がしてきて身震いした。だけどもう遅い。勇気を出そうと、胸を叩いた。
夕方五時。僕は戦場に赴く兵士の心境で体育室の前に立っていた。
「コンニチワ!」
間もなく、ヨンジュンと共に4人の学生が姿を現した。中にはいつもヨンジュンと寄宿舎で食事をしている年長の韓国人学生もいた。僕は緊張しながら、
「はじめまして。ユウゴと申します。よろしくお願いします」と、丁寧に自己紹介をする。
そんな僕の不安そうな表情を見て、年長の学生は微笑んだ。
「おう。俺はヨンスだ。ただヒョンと呼んでくれ」
生まれて初めてのバドミントンだった。慣れているのか彼らの実力はなかなかのもので、僕はヨンス兄さんに一から基礎を教わった。軍隊で鍛えられたのかヨンス兄さんの肉体は剛健で、その引き締まった腕から放たれるスマッシュは勢いよく風を切った。
「全然運動してないんだな。男は身体を鍛えないとダメだぞ」
そう言って、筋トレのやり方も伝授された。
「ヒョン、そろそろ休みませんか?」
ヨンジュンがヨンス兄さんに声をかけ、僕らは寄宿舎の裏側のベンチで休憩した。
「韓国はどうだい?」
ヨンス兄さんが尋ねると、皆、僕に注目した。その視線には自分たちとは違う何かを見つめる好奇心が溢れていた。
「韓国人はみんな親切です。韓国はご飯もおいしいです。ぜんぶ最高です」
とにかく褒めまくる。
「ただ、韓国語は難しいです……」
するとヨンス兄さんは、
「どうしたら韓国語が上達するか教えてやろうか?」
そう言ってニヤリと笑った。怖い。
「これだよ」
そうして小指を立てると、
「韓国の女性ってどうですか?」と、ヨンス兄さんの隣にいた眼鏡の学生が質問する。
「はい。素敵だと思います」
「おう。そうだよ、韓国の女は最高だよ。きれいだしな」
「そう思います」
「韓国人の彼女ができたら、すぐ韓国語なんてうまくなるぜ」
「はい。一生懸命に頑張ります」
そんな僕の真面目な返事が面白かったのか、みんな声を出して笑った。
「真面目だな」
そう言って、ヨンス兄さんは立ち上がり、一言こう言った。
「日本も韓国も過去には悪い歴史があったけど、これからは仲良くしよう」
その後、寄宿舎での夕食の時間まで僕らは汗を流した。
俊敏な動きでバドミントンのラケットを振るヨンジュンを見て、
「ヨンジュンさん上手ですね」と賛辞を送ると、
「僕はまだ1年生ですから『さん』はつけなくてもいいですよ。ただヨンジュンと呼んでください」と言われた。
大げさだけれども、小心者の僕はこのなんでもない一言で、「日本嫌い」の彼から少し信頼してもらえたような気がした。そのせいだろうか、久しぶりに身体を動かしたにも関わらず、疲労はほとんどなく、むしろ全身に血が循環していくようで爽快だった。
なんだか思いもよらず、充実した夏休みになる予感がした。