僕と済州島の物語

2002年に済州島でホームステイ、 2005年に済州島に留学、2013年に済州島で国際結婚、2015年に済州島で長男誕生。 そんな僕と済州島の物語です。

済州島留学物語 第11話【夏2】

 図書館は3階建てだ。座席数の多い1階と比べ、2階と3階は書架のスペースがメイン。普段は足を運ぶことがあまりなかったが、夏休みに入り、ゆっくりと見学してみると、まるで特等席のような席を発見した。それは2階の北側に面した席で、目の前のガラス窓からは、済州島の街並みと遠くに海が見渡せた。なだらかな丘陵に沿って建てられた大学キャンパスの中でも、図書館は高台に位置していたのだ。ある日の午後、偶然、空いていたその席に座り、その素晴らしさに感動した僕は、毎朝、その席を確保することから1日を始めた。

 人と話すことなどほとんどなく、毎日、9時前に図書館にやってきて夕食の時間まで過ごした。昼食は適当にパンなどを買ってベンチで食べた。夏休みが本格的に始まると、知り合いの韓国人学生の多くはそれぞれの故郷に帰ってしまった。ルームメイトのピアスやゲーマーも、そしてヨンジュンやヨンス兄さんも。

 国際課職員のウニョンさんは、夏休み中も仕事で大学に来ることがたびたびあり、そんな時はよく昼食をご馳走してくれた。

「ユウゴ。せっかくの夏休みなのに、図書館にばかりいたら病気になるよ」

「でも、日本にいたころはバイトが忙しくて全然勉強する時間がなくて……。こういう時間が欲しかったんです」

「それならわたしも文句は言わないけど……。本当はもっといろんな人と出会って、いろんな所に行ってほしいよ。毎日酒飲んで遊んでるタクヤみたいになれとは言わないけど。性格も違うし。でもなんか毎日図書館で勉強しているユウゴを見ていると、わたしが申し訳なくなってくるのよ。留学生担当の大学職員だし」

 なぜかウニョンさんには自分の目標を話すことができなかった。今こそ彼女に僕なりの「必死さ」をアピールするべきときなのだろうけれども、うまくいかなったときのことを想像して後ずさりした。そして何より僕は、早くも自信を失いつつあったのだ。

 いくら勉強しても試験の過去問の点数は伸びず、目標の一歩手前である5級の合格基準点にすら及ばなかった。

 窓ガラスの先に映る済州島の海に浮かぶ船、空を飛ぶ飛行機をぼんやりと眺めていた。窓の下を見ると、数人の学生たちが楽しそうに車に乗り込んでいる。

 ノートに日付と点数を記録すると、僕は、今、この瞬間にも、多くの機会を喪失している気がしてきた。ウニョンさんの言うように、本当は、いろいろな人と出会って、いろいろな所へ行くべきではないのだろうか。

 帰国直前まで韓国人の学生たちと飲み会づくしだったタクヤや、韓国で自分の居場所を探すサチコ、将来の目標に向かって済州島を飛び出したナオの顔が浮かんでは消えた。でも、自分は彼らとは違う。僕には僕が立てた目標があるのだ。それが、この韓国語能力試験の最難関合格。人とコミュニケーションをとるのが苦手な僕が社会で認められるためにはこの資格がどうしても必要だ。間違っていない。これが今、将来のためにできる僕らしい「必死」なんだ。そう思った瞬間、ドゥヒョン先輩の言葉がどこからか飛んできて僕の頬を殴った。

「結局、おまえは自分を守ろうとしかしてねえんだよ」

 あるいは僕は試験合格という目標を口実に、実はもっと大切なものから逃げているのだろうか。勉強してもほとんど点数の伸びない現実は、僕の将来に対してあまりにも無関心で冷酷だった。

 済州島半日ツアーで城山日出峰ソンサンイルチュルボンから見た景色を思い出した。それは城山日出峰と済州島の陸地が、紺碧の海の上でわずかにつながっている景色だ。僕はそれを見て、自分と世界の、いや、自分と社会の心もとないつながりを連想していた。このつながりを強固にしなければ、いつかパチンと音を立てて僕は世界と切り離され、どこか遠い所へ投げ飛ばされてしまいそうだった。

 ため息をついて窓の外の青い空を見上げた時、思い出したようにカバンの中から済州島の地図を取り出した。漢拏山ハルラサンを中心としたその楕円形の地形を眺めていると、済州島の大地を歩いてみたくなった。単なる気分転換かもしれない。だけど、それで僕が、世界とつながれる気がした。

 思いは固まった。一度、外に出てみよう。

 

 その翌日、早くも僕は図書館を飛び出した。僕にとっては珍しいことだった。たいていのことは、思い立ってもすぐに躊躇ばかりしていたから。僕は焦っていた。自分の目標を確認するために、そしてその目標に向かってこの夏を突き進むために。

 天気はどんよりと曇っていた。僕は、ウニョンさんの恋人であるスンウォン兄さんからもらったリュックを背負い、パジャマ代わりに使っていたジャージのズボンにTシャツ姿だった。

 済州島には「一周道路」と呼ばれる海岸に沿った大通りがある。約200キロ。そこを歩いてみようと思う。図書館から眺めていた済州島の海を近くに感じながら、島を徒歩で一周するのだ。

 寄宿舎で朝食を食べ終えると、すぐに市内行きのバスに乗り、市役所前の一周道路に降り立った。

 午前の早い時間だったせいか、市街地にしては人の往来が少ない気がした。気になるのは天気だ。歩き始めてすぐに雨が降り出した。そんな僕の不安に拍車をかけるように雨脚は次第に強くなる。

 何もこんな日に一歩を踏み出さなくてもいいじゃないか。戻るなら、引き返すなら今のうちだ。振り返って戻りのバス停の位置を確認する。自ら決して動くことのないその無感情な佇まいは、いくら勉強しても成果のあがらない過去問の結果のように、どこか僕を冷笑しているように見えた。

「今に見てろ」

 引き返すのはやめよう。

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