「はい、起きなさい。朝ごはん」
おばあちゃんの上手な日本語で起き上がった。時間は午前7時半。寝ぼけ頭に、一瞬、ここがどこなのか混乱したが、携帯のすぐ隣にあった地図を見て思い出した。全身は筋肉痛で身体は思うように動かない。
朝食はたくさんのおかずと共に味噌汁が出てきた。その味噌汁の味は日本の味噌汁の味とあまりにもそっくりで懐かしい味だった。
「たくさん食べな」
寝起きで食欲はあまりなかったが断りきれず、ご飯もおかわりし充電するように身体の中に流し込む。
朝から大粒の雨が降っていたが、出発直前に空が晴れ渡った。まるで虹でも架かりそうな青い空。やれる。ゆっくりでいい。自分のペースで歩き続けよう。おじいちゃんとおばあちゃんから非常食と小さなトルハルバンの置物を頂いた。トルハルバンは、病魔や邪気が入らないようにと、村の入口などに建てられる済州島のシンボル的存在だ。
「将来、立派になるんだよ。そんときゃわたしら生きてないと思うけど」
そう言って微笑むおばあちゃん。僕らは固い握手を交わし別れた。そして僕はまた孤独な一周道路に戻ってきた。
右足首の違和感はすぐにやってきた。捻挫したように徐々に腫れてきている。それでも歯を食いしばりながら足を前に進めた。
本当に一周できるだろうか? 僕の中の不安を映し出すようにまた雨が降り始めた。
近くにあった寺院に避難し、ベンチに座る。前日の目的地だった
やはり心のもちようだ。ゴールを意識せず、ひたすら歩くことだけに集中したところ、心も身体も軽くなってきた。気がついたら前日の目的地である城山を通り過ぎていた。これで島の4分の1を歩いたことになる。立ち止まると右足首に針が刺さっているような痛みを感じた。歩き続けることで少しずつ感覚が麻痺していたようだ。喉の渇きも感じたため、僕は一周道路から路地に入り休憩することにした。
コンビニのベンチで清涼飲料水を飲みながら地図を眺める。時間は午後3時前だった。地図で行き先を辿っていくと、15キロほど先に
どこかで聞いたことのある地名だった。飲料水を飲み終え、寄宿舎の体育室でヨンス兄さんから教えてもらったストレッチをしていると思い出した。ヨンジュンだ。彼の実家は表善だと言っていた。今は夏休み中で帰省しているはずだ。
ここだ。ここをゴールにしよう。ボロボロになりながら、世界と自分が離れ離れにならないように必死になっている姿を彼に見てもらうのだ。あと15キロ。ゆっくりでいい。陽が暮れるまでに歩いてみよう。
出発。足が軽い。行ける、きっと行ける。表善まで行けたら今回の旅は成功だ。そして明日からまた勉強を再開するんだ。相変わらず空は雨が降ったりやんだりだった。だけど時おり降る小雨が涼しい。
少し気持ちに余裕が出てくると、また海を見たくなった。地図を見ると海岸道路もすぐ近くだ。雨もあがり陽も出てきた。小学生2人が僕の前を楽しそうに駆けていく。のどかな風景。ぽつりぽつりと立ち並ぶ民家の間を抜けて海の方向に歩いて行くと間もなく海が見渡せた。
「おい、冷たいもんでも飲んで行け」
海岸沿いの飲食店の前を通り過ぎると、店の前で話していたおじさんが後ろから声をかけてきた。疲労のため、僕は倒れるように店の前の座敷に腰をかけた。
「どこから来たんだい?」
「日本です。済州市から歩いてきました」
「日本? 日本人か? どうして韓国語が話せるんだ?」
「いえ、まだまだです」
「おい! 日本から来たんだってよ」
店の中から夫人であろう女性が出てくる。
「日本? あら、珍しい。それじゃ空港から歩いてきたの?」
「いえ、済州市内からです。留学生なんです」
出された冷たいオレンジジュースと麦茶を飲みながらいろいろと話した。
「何、表善まで歩くだって? 今、何時だ? 無理だ、無理。俺んちに泊まって行け」
「そうよ、泊まってゆっくり休みなさい。明日また出発すればいいじゃない」
「いえ、突然ですし、悪いです。表善には友だちもいるんです。今、四時だから頑張れば歩いて行けます」
「でも、ここは海岸道路だ。この道から行くと遠回りだ。一周道路までは連れてってやる」
そう言っておじさんの車にしばし乗せてもらうことになった。なんだかヒッチハイクみたいだな。そう思いながら、少しずつ人見知りがなくなっていく自分が頼もしく見えた。今の僕に必要なのはこういうことなんだ。
車窓から遥かを眺めていると、ここは東海岸だということに気づいた。地平線の彼方には日本がある。いつの間にか留学生活も半分が終わろうとしていた。僕はここで何を残し、そして何を持って故郷に帰るのだろう。そんなことを考えながら、運転するおじさんの鼻歌を聞いていた。
それからは足を引きずったような状態で歩き続けた。雨上がりの陽を浴びて済州島中が輝いて見え、その光を目指すようにゆっくりとゆっくりと足を進めた。ヨンジュンには表善に着いたら電話をしてみよう。たとえ会えなくとも、歩いてここまでやってきたということを伝えられればそれでいい。
午後6時、表善にある済州民俗村の看板が見えてきた。小高い丘から見下ろすと、そこには表善の町並みがあった。到着したのだ。交通量も多く、商店街には携帯ショップやコンビニ、会社の事務所などが立ち並んでいた。僕はなかば高ぶった気持ちのまま携帯を握った。
「もしもし、ユウゴです」
「ユウゴさん、どうしたんですか?」
「実は今、表善にいるんです」
「そうなんですか。友だちと遊びに来たんですか?」
「いえ、歩いてきたんです。済州市内から」
「歩いて? いったい今、どこなんです?」
徒歩でやってきたことにはさすがにヨンジュンも驚いたようだ。僕は自分の居場所を伝え、済州島を徒歩で一周することに挑戦していたことを話した。
「これからどうするんですか?」
「もう限界なので、大学に戻ろうと思います。できたらバスで」
「大学のほうに行くバスなら八時くらいまであります。僕が案内しますよ」
そして僕はヨンジュンに指定された場所で彼を待つことになった。わざわざ来てくれることになるとは、迷惑な連絡をしてしまったんじゃないかと少し悔やまれた。だけど僕は、彼との出会いの日に言われた「僕は日本が好きではありません」という一言を忘れられずにいた。そして、僕の一挙一動が彼に見られているような気がしてならなかった。だからこそ彼には、今の、少しだけ世界とつながりつつある僕の姿を見てもらいたかった。
「ユウゴさん、驚きましたよ」
それから15分ほどしてヨンジュンはやってきた。
「すいません、突然電話をしてしまって」
「済州島を自転車で一周する人はたまにいますけど、徒歩で一周するなんて聞いたことがありません。ここまで来るのもたいしたものです」
「一周できなくて残念でした。ただ、僕にはこの秋に達成したい目標があるんです。そのために挑戦しました。明日からはまたその目標に向かって挑戦です」
「目標? どういう目標ですか?」
僕はためらった。ここでその目標を話してしまうと、自分がそのプレッシャーに耐えきれなくなってしまいそうだったから。だけど、この短い旅を通して出会った帽子の老人や、ウニョンさんの祖父母、そして海岸通りの夫婦の顔が頭に浮かんだ瞬間、
「韓国語能力試験の最難関に合格したいんです。難しい目標ですけど」と語っていた。
ヨンジュンは黙って、握っていた栄養ドリンクを僕に差し出し言った。
「大丈夫ですよ。毎日、頑張ってるじゃないですか」
ただ小さな歓喜の中にあった。雨上がりの新鮮な陽を浴びて輝く表善の町並みを眺めながら、僕は帰りのバスに揺られた。疲れ果てた身体。ぼろ雑巾のような靴。徒歩で済州島一周はできなかった。だけど僕に、悔いはなかった。ほんの少し、この世界とつながれた気がしたから。
『ウニョンさん、昨日はありがとうございました。親切なおばあちゃんとおじいちゃんでした。歩いて済州島一周はできませんでしたけど、明日からまた韓国語の勉強を頑張ります』
携帯では日本語のショートメールを打てないため、韓国語で打った。そこまで打って、最後の一文だけ修正した。
『明日からまた韓国語能力試験6級の合格を目指して頑張ります』
そして静かに瞳を閉じた。