僕と済州島の物語

2002年に済州島でホームステイ、 2005年に済州島に留学、2013年に済州島で国際結婚、2015年に済州島で長男誕生。 そんな僕と済州島の物語です。

済州島留学物語 第14話【夏5】

 僕は冷房の効いた図書館の机に朝から晩までかじりついていた。旅の道中で撮った写真は、コメントと共にSNSにアップしていたため、僕が歩いて済州島一周に挑戦したことはすぐに知れ渡った。また、ヨンジュンが、

『ユウゴさん、あの時はお会いできてうれしかったです。きっと目標の韓国語能力試験6級に合格できますよ』とのコメントを残し、ご親切に僕の目標を非公式に発表してしまったため、それも一緒に知れ渡った。

 その日も図書館のベンチに座って菓子パンを食べていると、どこかで見覚えのある学生が、数冊の本を抱えてこちらに向かってきた。

 キム・ミソだった。

 学生記者から紹介され、連絡先をもらっていた女子学生だ。日本への留学の準備中で、日本語を教えてほしい、日本人の友だちがほしいとあいさつをされたものの、僕は何一つ連絡できないまま夏休みに入ってしまっていた。

 彼女が近づいてくると、心臓の鼓動が早まり、次第に菓子パンを持つ手が震え出した。僕は動揺を隠すように携帯を見ている振りをした。

 向こうも僕に気づいたようで、数歩のところで声をかけてきた。

「ユウゴさん、こんにちは」

 顔をあげた。ミソが微笑みながらも不思議そうに僕を見つめていた。そしてその微笑みは僕のすべてを見透かしているように超然としていた。僕は視線を少しそらしながら、

「アンニョンハセヨ」と韓国語であいさつをした。

「ユウゴさん、夏休みなのに図書館で勉強ですか?」

「はい。……図書館が好きなんです」

 8月に入ったばかりで、あの旅からは2週間が経っていた。

「日本の留学準備はどうですか?」

「試験は11月なんです。だからまだ時間はあります。でも、夏休みは日本語学校で毎日勉強です」

「日本語すごく上手だから問題ないと思いますよ」

「でも、わたし、日本語で話す相手がいない……」

 そう言ってミソは少し寂しげに微笑んだ。

「ユウゴさんも1人で韓国語の勉強するのは大変じゃないですか?」

「そうですね……。でも、1人で図書館で勉強するのも楽しいですよ。疲れたら本を読んだり、1人で済州島を歩いてみたり……」

 そして僕らはお互い試験頑張ろうと簡単なあいさつをして別れた。日本語で話す相手がいないと打ち明けた彼女に、「一緒に勉強しよう」と近づくことはやはりできなかった。怖かった。図書館の中に消えていく彼女の後ろ姿を黙って見つめた。

 

 その翌日、韓国語能力試験の5級過去問に4度目の挑戦をした。手ごたえはあった。確実に単語のボキャブラリーは増えていたし、問題の傾向もつかんでいたからだ。しかし採点の結果、またもや合格基準点には程遠かった。試験は翌月だったし、自分の目指す目標は5級どころかその上の6級なのだ。

 思わず赤面する。やはり目標が高すぎたのだ。今の自分の実力であれば5級の合格を目指していくのが妥当だったに違いない。「韓国語能力試験6級合格」と書いたノートの最初のページを握りつぶしたくなった。

 無謀だ。だから、そう簡単に人に目標など語るんじゃなかった。これで5級にすら合格できなかったら僕は何になる? 夏休み期間中、ずっと図書館にこもって勉強していたにもかかわらず、だ。ウニョンさん、ヨンジュン、そしてミソの顔が浮かんでは消えた。

 いや、僕は他人の評価を気にしすぎている。周りがどう思おうと自分が納得できればいいじゃないか。だとすれば、目標を現実的なところに今から再設定して挑戦するべきだろう。

 そう思った瞬間、これはどこかで見たことがあると思った。そうだ、あの旅の途中、済州島一周の目標を修正し、表善ピョソンをゴールに再設定した時と同じ状況だ。

 世界とつながりたいという思いは僕を歩かせた。そして雨の中、その一歩を踏み出した時、一周を達成してみせるという強い思いに変わった。成果のあがらない試験勉強へのいら立ちと自信喪失の中で、歩き続ければ辿り着けることを確かめたくて。しかし翌日、僕は一周を達成できずにまたここに戻ってきた。ただ、歩くきっかけとなった「世界と僕がつながる」ことはできたと思うし、自分の目標を人に語ることもできた。守ってばかりの自分の殻を破ることができたのだ。

 もはや結果は重要ではない。挑戦すること自体に意味がある。

 目標への挑戦が現実的かどうかも実はそこまで重要ではないのかもしれない。ただそこに向かっていけばいい。たとえ、達成できなくても、今回の旅のように僕は何かを得るだろう。目標を達成してもしなくても得られるものはあるのだ。だとすれば目標など達成する必要がないのかもしれない。

 思い返せば僕のこれまでの人生そのものがそうだった。高校受験も大学受験も目標には届かなかった。だが、結果、そこから得たものも多い。これからもきっとそうなのだろう。それがもしかしたら、サチコの言う「考えてもしょうがいない宿命」というものなのかもしれない。僕という人間の生まれ持ったどうしようもない宿命……。

 だが本当にそれでいいのだろうか。

 旅で消耗した使い古したスニーカーが、まるで僕自身のように見えてきた。穴の開いた箇所はガムテープで補修し形状を取り戻していた。傷だらけになりながらも、なんとかそれらしく生きながらえている。

 もし、あの時、一周を達成していたら何か変わっていただろうか。

 あそこであきらめてしまったこと自体が、自分のこれまでの人生と、これからの人生を暗示しているようでわだかまりになった。靴の中に入り込んだ石ころのように。

 そうしてしばらく窓の外に映る済州島の景色を眺めているうちに、僕はある一つのことを思いついた。

 僕ははやる気持ちを抑えきれず、早速、学内の売店で新しいノートを1冊購入した。そしてタイトルを書いた。

 

『タイムカプセル』

 

 僕のこれまでの人生と、これからの人生を、この済州島と共に見つめてみたい。

 誰にも語らなかった。言葉にしてしまえばまた自分を苦しめてしまうと思ったから。だけど僕の思いは固まっていた。胸は高鳴っていた。そして静かに準備を始めていた。朝昼晩のストレッチと筋トレ、天候のチェック。僕はこの島と共にどう変わっていくのだろう。その続きを見てみたい。そう、まだ旅は終わっていないのだ。

 

 1度目の挫折から約3週間後、僕は再びスタート地点に戻ってきた。そして思いを込めた一歩を踏み出した。もう一度、最初から済州島の一周に挑戦するのだ。

 僕はただ1人、黙々と歩き続けた。疲れ果てたときは、空に向かって歌った。済州島は僕と共にあった。生命力溢れる緑色の大地と紺碧の海。静かな平野で草を食む馬たち――。

 そして、毎夜、『タイムカプセル』に書き綴った。僕のこれまでの人生と、僕の思いを。

 今、あの夏を語るために、ここにその『タイムカプセル』を転記しようと思う。済州島を旅しながら記録した過去から現在へとつながる僕のキセキ。それは僕のこの留学物語において1つの通過点であり転換点だ。

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