僕と済州島の物語

2002年に済州島でホームステイ、 2005年に済州島に留学、2013年に済州島で国際結婚、2015年に済州島で長男誕生。 そんな僕と済州島の物語です。

済州島留学物語 第15話【タイムカプセル①】

タイムカプセル

 

済州島徒歩1周1日目

(済州市役所前~翰林ハンリム:約29km)

 

 1983年、僕は鹿児島県で生まれた。痩せた今の僕の体形からは想像できないけれど、4000グラムを超える大きな赤ちゃんだった。予定日は2週間も過ぎていた。

 生まれた僕は泣かなかった。泣かないから呼吸ができず、顔は紫色だった。このままだと死んでしまう。病院の先生たちは僕の尻を必死に叩いてこの無表情の赤ん坊を泣かせようとした。

 きっと怖かったのだ。未知なる外の世界に飛び出していくのが。そしてその未知なる外の世界に自分の存在を響かせるのが。

 この子は勇敢な男になってもらいたい。そんな願いを込めて両親は僕の名前に「勇」の字を入れることにしていた。しかし、そんな両親の期待は見事に裏切られた。僕は、生まれた時から、いや、母のお腹の中で息を凝らして外の世界をうかがっていた時から臆病だったのだから。

 

 鹿児島で過ごした日々は楽しかった。僕が生まれてから3年後に妹が生まれると、僕らは毎日のように家の近くの海辺を駆け回った。まだ幼い妹の前では僕もそれなりに勇敢な男だった。ある時は怖がる妹の前でカニを素手で捕まえて振り回したり、知らない人の家の柵をよじ登って虫を探し回ったり。エネルギーを持て余した時は、家の中でも冒険ごっこをして飛び回り、家で病気療養をしていた祖父によく怒鳴られた。だけどそんな僕も、幼稚園の中ではおとなしい子だった。

 近所に自分と同年代の子がいなかったせいか、同じくらいの背丈の子たちの集団は僕にとって第二の未知との遭遇だった。時に粗野な周りの子たちの遊びに入って行けず、いつも先生の近くで周囲の様子をうかがっていた。母の胎内にいるように、大人たちの近くにいると安心していられた。心もとない世界で、守ってくれる存在がいつも必要だった。

 それに比べ、家族と過ごす世界には怖いものなどなかった。毎週末は車で山や海に行き、父とボール遊びをしたり、虫を捕まえに行ったりした。母は手作りのサンドウィッチやおにぎりのお弁当を準備し、景色の良い場所を選んでレジャーシートを広げた。そして僕は頼りになる兄として小さな妹の手を引いていた。これが、これだけが世界のすべてならどれほど良かっただろう。僕は憂鬱に幼稚園に通い、卒園し、半ばあきらめる気持ちで小学校に入学した。

 ちょうどそのころから父のしつけが厳しくなり始めた。言葉遣いや行儀が悪ければ容赦なく殴られた。それからしばらくは父の顔を見るのも嫌になるが、父はもうそんなこと覚えていないというふうに冗談を言いながら僕に話しかけてくるので、気がついたらいつもの関係に戻っている。だけど僕は今でもあの時の父の様子をはっきりと思い出すことができる。僕を見つめる上気した赤い顔。ぎしぎしと音のする居間に響く力強い一歩。僕の目の前で振りかざされる拳。その一発で、平和な世界は一変する。どちらが本当の父の姿だろうか。どちらが本物の世界だろうか。世界は常に変化していくもので、永遠に変わらない世界などないのだ。

 僕が8歳のころに祖父が亡くなった。がんを患わっていたため、ずっと入退院を繰り返していた。手遅れになるまで病気は進行していたのだろう。晩年は家で苦しんでいた。そんな祖父も気分が良いときは「海を見に行こう」と僕ら兄妹を誘った。

「じいちゃんが死んだら、家の中で飛び跳ねても怒る人がいなくなるな。どうだ、早く死んでほしいか」

 波の音にかき消されないよう、語気を強めて祖父はそう言った。妹は持ってきたウサギさんのお人形を使って僕の肩をしきりにつついている。それまで身近なところで死と遭遇したことがなかったが、それはきっと痛くて苦しいんだろうと思った。夜中に1階から聞こえてくる祖父のうめき声を思い出していた。そうした苦しみのピークの先にあるのが「死」なのだ。祖父がこの世界から消えてしまう悲しみよりも、これからもっともっと祖父を苦しめるであろう「死」というものが怖かった。

「イヤだよ」

 これからその「死」に向っていく祖父を励ますよう、僕は無理強いに微笑みながら言った。

「なんでだ。じいちゃんとお別れしたくないか」

 そう言って僕の手を強く握った祖父。死んでしまえば、祖父はもう僕らに会えなくなるどころか、この海を見つめることも、この大地を踏むこともできない。そんな祖父がかわいそうでならなかった。これから先、祖父の先にあるのは極限の苦しみと虚無。僕も祖父の手を強く握り返した。

 

 お絵描きが好きだった。祖父がいなくなろうと、父が拳をあげようと、世界が急変しようと、自分の描いた世界だけは変わらないから。小学校で仲間外れになろうと、先生に叱られようと、僕の目に映る世界が変わろうと、自分の描いた世界だけはずっとそこにあって僕だけのものだったから。

 ある日、妹がそんな僕の世界に足を踏み込んだ。当時好きだったアニメのキャラクターと僕が肩を組みながら空を飛んでいる絵に、妹が自分の顔を書き出したのだ。自信作だっただけに、僕はすぐにかっとなり妹の頬を殴った。当たり所が悪く、妹は鼻血を流しながら大泣きした。僕が学校から帰宅してすぐの時間だった。夕ご飯の準備をしていた母が何事かと飛んできて状況を把握すると、無言で僕の頬をビンタした。母に殴られたのは、これが初めてだった。僕は泣き顔で、

「だって落書きしてきたから……」と言うと、

「謝りなさい。女の子に手をあげたら絶対にダメ」と僕を強く睨んだ。

 しかたなく僕は視線を落としながら妹に頭を下げた。母はまだ幼稚園生の妹を抱きかかえて居間に連れて行った。

 僕は半ば放心状態で自分の描いた絵を、自分だけの世界を見つめていた。その世界に描かれた妹の顔は楽しそうに笑っていた。

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