僕と済州島の物語

2002年に済州島でホームステイ、 2005年に済州島に留学、2013年に済州島で国際結婚、2015年に済州島で長男誕生。 そんな僕と済州島の物語です。

済州島留学物語 第17話【タイムカプセル③】

済州島徒歩1周3日目

中文チュンムン南元ナムォン:約31km)

 

 それでも僕は変わりたかった。高校に入学するまでの春休みの間はギターの練習ばかりをしていた。高校に入ったら立花君と共にギター部に入部するつもりだった。とはいえ僕は指先が不器用だったせいか、コードチェンジがうまくいかない。特に複数の弦を同時に押さえなければいけないFコードなんかはいつまでたっても音が出なかった。他方で立花君のスキルはどんどんアップしていた。部屋にはバンドスコアが何冊もあり、「高校に入ったらバンドをやりたい」なんて語っていた。僕もそのバンド仲間に入れてもらえるのだろうか。それについて立花君は何も触れなかったし、僕も話題にしなかった。ただ、一緒にギター部に入部しようという話はしていたので、僕は少しでも彼のレベルに追いつこうと必死に練習した。高校という未知なる世界への挑戦。僕はその恐怖に打ち勝つようにギターを鳴らし続けた。

 

 そうして僕らは高校に入学し、ギター部の扉を開けた。1人きりでないのが心強かった。それは立花君も同じはずだ。

 そこにいたのは、茶髪と長髪の集団だった。比較的校則が緩い高校ではあったが、一つの空間に派手目な生徒が勢揃いすると迫力があった。僕と立花君は思わず目と目を合わせた。

「入りたいの?」ベースを無造作に演奏していた大柄の生徒が近づいてきた。

「はい、新入生です」緊張気味の立花君が腹に力を入れて答えた。

「なんか弾ける?」

 そうして彼は立花君に壁にかけてあったエレキギターを手渡しミニアンプにつないだ。

「まだへたくそだけど……」

 そう言いながら立花君は1曲弾き始めた。軽やかで鋭いリフが部室中に響き渡る。世界が立花君の世界に一変する。その眩しさに僕は目を細め縮こまった。

「結構練習したでしょ?」

 大柄の生徒は途中で制すると立花君に向かって声を張り上げた。まだ音楽の余韻が漂っている。

「はい、中学のころは1人でずっと練習してました」

「オーケー。で、もう1人の君は?」

 一同の視線が僕に向かう。ダメだ、この雰囲気の中では弾けない。

「僕は、まだ初心者です」

「でも何か弾けるのあるでしょ?」

「まだコードを覚えてるところです」

「ふうん」

 僕と立花君は部室の片隅に座って先輩たちのバンド演奏を眺めた。皆、上手だった。音楽は、僕の存在など歯牙にもかけず、先を走り続けた。そしてそのまま僕の手の届かない世界へと変わっていった。リズムに合わせて首を振る立花君の横で、僕は、強く、思う。この世界に僕の入る余地などない。立花君は、きっと、ここで、自分とピッタリのバンド仲間と出会うはずだ。僕は、ここにいてはいけない。

 

 美術部に入部することにした。

 立花君はギター部でうまくやっているようだった。しばらくすると彼は髪を茶髪に染め、僕とも遠ざかっていった。そして僕もギターやロックから遠ざかった。封印するように。

 美術部の新入生は僕1人だった。中学に入ってからはほとんど絵を描くことはなかったが、心に空いた空洞を埋めるためにもう一度描いてみたかった。みんな絵を描かないのだろうか。だけどそんな状況は、しばし僕を僕だけの世界に没頭させた。その世界は誰のもとにも届かなかったけど。

 学校生活はそれまでとなんら代わり映えしなかった。いつだって僕はクラスの中で地味な存在で、自分から誰かに近づくこともしなかったし、誰も僕に関心なんてない。ただ、卒業までの日数を数えながら退屈に過ごしていた。

 高校2年の時に図書委員になった。と言っても本が好きだったわけではない。地味で目立たない委員だったから手を挙げたのだ。だけどそれは僕の人生で大きな転機となった。

 鈴木先生のことは何度か見かけたことがあった。生徒がうるさく走り回る校内の廊下や階段を右足をひきずりながらゆっくりと歩く白髪の老教師。右足になんらかの障害があるようだが、背筋はぴんとしていて、その雰囲気はどこか不動不屈の縄文杉を思わせた。なんの科目を教える先生なのかわからなかったが、興味深い存在だった。

 その日、図書委員の仕事の説明を聞きに初めて図書室に入ると、鈴木先生がいた。すでに何人かの生徒は用意された椅子に着席していた。

「どうも、学校司書の鈴木です」

 鈴木先生は少しかすれ気味の声でそう言うと、わら半紙を配り始めた。「本は未知の世界への旅」というタイトルに僕の視線は止まった。自分以外の世界にはもう何も期待などしていなかったし、未知の世界なんて僕にとっては恐怖でしかなかったから。

「このたびは図書委員の役目を引き受けてくれてありがとう。この中に1カ月に1冊以上、本を読んでいる人はいますか?」

 先生は20数名の生徒にそう問いかけ、2、3名の生徒が静かに手を挙げた。

「はい、ありがとう。まず自己紹介からしなくちゃいけないねえ」そう言って軽く咳ばらいをした。

「僕はねえ、もともとは体育の教師だったんです。若いころからずっと剣道をやってて、国体に出るほど将来有望な選手だったんですよ。本はねえ、ほとんど読んでなかった。読んだのは剣道の教本とか教科書くらいかな。そんな僕が学校で図書館司書をやってる。面白いでしょ?」

 開いた窓から4月の温かく柔らかい風が入ってきた。

「だけど20年前に交通事故に遭ったんです。これが僕の人生の大きなターニングポイント。結構大きい事故でね。集中治療室にも入ったし何カ月も入院した。やっと退院できると思ったら右足に後遺症が残った。しかも医者からは激しい運動を禁じられていたから、体育教師の職場復帰も難しくなった。普通だったら絶望すると思うでしょ? 僕も最初はそうだった。でも、入院中にたまたま読んだ本が僕を救ったんです。それが『レ・ミゼラブル』です。入院生活が長引きそうだからと言って当時の同僚だった国語の先生がプレゼントしてくれたんですね。僕も精神的に落ち込んでたからね、こんな長いの読んでられっかって見向きもしなかった。だけど、あんまりにもすることがなくてね。しかたなく手に取ってみたんです。するとこれが面白い。作者のユゴーがね、僕だけに語り掛けてくるようなんです。そんな時は病院のベッドに横になっている自分のことなんてすっかり忘れて、僕の体は200年近く昔のフランスに飛んでましたよ。退院するころにはもう読書の虜になってしまって、体は不自由になってしまったけど、心は自由になってたね。だって本を開けば、何百年前の人とも話ができるし、海外旅行も宇宙旅行だってできちゃう。その時、自分の目の前に開けてきた道が、この学校司書の道だったんです。これまでの教員の経験も生かせるし、学校が好きで、本に魅了された僕にとっては、この道しかない。そう決意したんですね。そして今、皆さんとお会いできました」

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