僕と済州島の物語

2002年に済州島でホームステイ、 2005年に済州島に留学、2013年に済州島で国際結婚、2015年に済州島で長男誕生。 そんな僕と済州島の物語です。

済州島留学物語 第20話【秋1】

 僕らを乗せた飛行機は、ゆっくりとソウルの金浦キンポ国際空港に着陸した。

 隣で寝息を立てていたタクヤが、「もう着いたのか、はやっ」と言って大きなあくびをすると、後ろの座席に座っていたナオがため息をついた。

「早すぎですよね。単語覚えようとしてたのに全然時間足りなかったです」

「俺にはそんな時間より睡眠時間が足りん」

「タクヤ、めっちゃ自信あるなあ。5級だって結構難しいんだからね」

 ナオの隣に座っていたサチコはそう言いながら立ち上がる。

 いよいよ韓国語能力試験だ。済州島は受験地ではなかったため、僕らは観光も兼ねてソウルにやってきたのだ。前年に5級に合格したサチコは6級を、今回初めて挑戦する僕とタクヤとナオの3人は5級と6級の両方を受験する。

 手続きを終え、到着ゲートに出るとカップルがこちらを見つめて手を振っていた。2人とも日本人のようにも韓国人のようにも見えた。

「田中先輩、お久しぶりです!」

 タクヤが小走りで2人に近づいた。

 この人が田中先輩か。タクヤの大学の先輩で、ソウルの日本大使館に勤務しているという。

「ようこそ。相変わらずロックミュージシャンみたいだな」

 田中先輩はタクヤと軽く握手を交わすと僕らに視線を移した。

「どうも、田中です。みんな、明日は試験頑張ってな」

 空港の外を見ると夕陽が空を鮮やかに染めていた。最後の1日が終わろうとしている。僕らも簡単に自己紹介を済ますと、サチコはソウルに住んでいる韓国人の彼氏のもとへ、ナオは夏休み中にホームステイをしていた家族のもとに向かった。小さな済州島では一緒の僕らも、広いソウルではそれぞれ居場所が違う。僕はタクヤと共に田中先輩の家に泊めてもらうことになっていた。

 

 田中先輩の運転するセダンに乗って僕らは先輩の家に向かった。先輩の彼女のヨンヒさんは僕ら留学生に興味津々のようで、移動中の車内ではいろいろと韓国語で質問された。

「お2人は、なんで済州島に留学したの?」

「正直、俺はソウルを希望してたんです。でも留学試験に落ちました。どちらかというと俺ってソウルっぽくないですか? ソウルの街中でバンド演奏する、それこそ俺が夢見ていた留学生活だったんですよ」

 ヨンヒさんは運転する田中先輩のほうを向き、

「タクヤって韓国語本当に上手ね。面白いし。こんなに上手なのに試験に落ちたなんて不思議。優秀な大学なのね」と言うと、

「そうだよ、だから言っただろ」とネイティブのような韓国語で田中先輩は答えた。

 2人はつきあってちょうど半年なのだという。ヨンヒさんはモデルのような黒髪の長髪で、ところどころ日本語の単語を織り交ぜるところを見ると日本語もある程度は話せるようだ。

「ユウゴは?」

「僕は、済州島が好きだからです」

「わあ、なんか確信にあふれた言い方ね。素敵よ」

 僕は少し照れながら頭をかいた。

「え、ユウゴそうなの? ユウゴもてっきり俺と同じパターンかと思ったぜ」

「いや、僕も最初はソウルを希望していたんだけど、済州島のことを知れば知るほど済州島に行きたくなったんだよね」

「やっぱり変わってるよなあ。そんで済州島を歩いて一周したってわけか」

「歩いて一周?」

 信号待ちをしていた田中先輩と助手席のヨンヒさんが驚いてこちらを振り返った。

「はい。この夏に歩いてきました」

「歩いてきましたって、ちょっと近所のスーパーまで歩いてきましたーみたいに言うね。何日もかかったでしょ?」

「5日かかりました。でも楽しかったです」

 その旅に込めた思いは語らなかった。そして僕が得たものも。

 

 田中先輩の家は龍山ヨンサン区の高層マンションの一角にあった。このあたりは日本人の駐在員が多く住んでいるらしい。

「いやあ、先輩。やっぱり外交官は格が違いますね」

 タクヤが玄関に入るや興奮気味に言う。

「だから外交官とは違うんだって。在外公館派遣員だって」

「おんなじですよ。大使館員なんだから」

 夕食は、試験で力が出せるようにと、サムギョプサルを準備してくれていた。ヨンヒさんが手際よく準備すると、田中先輩が鉄板に野菜や肉を焼き始めた。

「在外公館派遣員っていう仕事があるんですか?」

 気になって僕は田中先輩に訊いた。

「そうそう。大使館とか領事館に派遣されて国の外交をサポートするんだ。サポートと言っても総務とか会計とか、事務的な仕事がメインだけどね。任期は2年で若者だけにチャンスがある」

「韓国語はうまいし、美しい韓国の彼女さんはいるし、家は広いし、お金持ちだし、イケメンだし、先輩、尊敬します!」

 そう言ってタクヤは田中先輩と缶ビールで乾杯した。

「明日は朝から試験なんだから、今日は酒ほどほどにな」

 改めて僕らは4人で乾杯した。換気のために開け放った窓から入ってくるひんやりした風が心地いい。9月の下旬だったが、ソウルの夜は済州島よりも冷えるようだ。

「田中先輩は留学もされてたんですか?」

「うん。大学3年のころにね。その時もソウルで暮らしてた。で、卒業して商社に就職したんだけど、あんまり韓国とは関わりがなくてさ。せっかくだから仕事でも韓国語を使いたくてここの試験受けたんだよ。それが運よく受かってここにいるってわけ」

「でもあと半年なのよね」ヨンヒさんが軽いため息をつきながら言った。

「うん。任期が3月までだからあと半年で俺も帰国だ。そろそろ次も考えなきゃな」

 

ヨンヒさんは暗い表情のまま首を横に振った。あと半年で自分たちが離れ離れになってしまうことは考えたくないというふうに。

「でも田中先輩のそのキャリアなら引く手あまたですよ。問題は、俺たちだ。なあ」

 タクヤが僕のほうを見た。就職。僕の前に立ちはだかる大きな壁。僕は今、そのための武器を手にするためにソウルまでやってきている。ここで結果を残せれば、僕も田中先輩のように韓国語を使って社会に自分の居場所を作れるはずだ。

「まあ、なんとかなるもんさ。どんどん食おうぜ」

 そう言って田中先輩はハサミで切ったサムギョプサルを僕らに取り分けてくれた。

 済州島を徒歩で一周した僕は、その後はひたすら図書館で試験の勉強に打ち込んだ。かつてないほどに勉強した。済州島を歩いて一周した時の信念と情熱があれば、きっと乗り越えられる。そんな不思議なエネルギーがみなぎっていた。

 

 翌日は9時から試験だった。田中先輩の運転する車で早めに会場の大学に着いた。

「じゃあ、頑張れよ。もうここまで来たらあとは運だぜ。グッドラック!」と言って田中先輩は滑らかに車を発進させた。

「やっぱかっこいいよな。俺もあんなふうにソウルの街を走ってみたいもんだ」

「ミュージシャンで成功すればいくらでも走れると思うよ。運転手付きで」

「そうだよな。サングラスをかけた運転手付きのリムジン。俺にぴったりだと思うけどなあ。ボディーガードとか秘書も乗せてさ」

「それじゃ政治家だよ」

「おお、なんか最近、ユウゴ結構言うよね。済州島一周という通過儀礼を経て、ついに1人前の大人になったか。ブハハハッ!」

「あ、いた」

 目の前の時計台の影からナオが現れた。目の下に隈がくっきりと浮かんでいた。

「何、盛り上がってたんですか?」

「ああ、ユウゴがついに大人の男になったって話だよ」

 ナオは少し考えてから、「……まさか、昨日、あのあと変なお店に行ってたんですか……?」と遠慮がちに言う。

「違う。違う」僕は慌てて否定したがタクヤはけらけらと笑ってばかりいた。どうしていいかわからず、僕は話題を変えた。

「眠そうだけど昨日も遅くまで勉強したの?」

「はい。2時くらいまで勉強して布団に入ったんですけど、なんか緊張しちゃってほとんど眠れなかったんです」

「田中先輩も言ってたぜ。あとは運だって。リラックスしないと出せる力も出せないぜ」

「やっぱりナオも6級目指してるんだね」

「はい。将来の就職のためには必要だなって思って」

 やはり考えることは皆同じだ。将来のための一歩に挑戦しようとしている。

 受験会場の国籍は多種多様だった。僕の後ろの席にタクヤ、タクヤの後ろにはナオが座った。日本人の学生も何人かいるようだ。

 いよいよ始まる。午前は5級、午後は6級の試験だ。

 不思議と緊張はしなかった。これまで韓国語の勉強はずっと1人でしていたため、こうして見知らぬ人たちに囲まれての受験はむしろ心地よかった。こんなに仲間がいたのかという安堵感すらあった。

 午前の試験はあっという間に終了した。それだけ集中できていたからだと思う。

「みんなどうだった?」

 午後から6級を受験するサチコがみんなの分のキムパプを買って待っていた。僕らは広い芝生に面したベンチに腰掛けた。

「わたし、5級も6級の過去問もやりましたけど、これ6級じゃないかって単語も結構出てましたよ」

 そう言ってナオはため息をついた。

「たしかに、俺ですら初めてお目にかかる単語とかあったな」

「だから言ったじゃん。5級も意外と難しいんだって。ユウゴはどうだった?」

「難しかったけど、それは覚悟してたし。それよりも韓国語勉強してる外国人がこんなにたくさんいることに少し驚いた。済州島はやっぱり小さいんだなって改めて感じたよ。そこが済州島の魅力なのかもしれないけど」

「そこかよ。なんかユウゴ、済州島歩いてから済州島愛が止まんねえな」

「でもさ、1回歩いて挫折したって言ってたじゃん? なんでまたチャレンジしようと思ったの?」

 サチコの問いに僕は一瞬考えてから口を開いた。

「それは……なんていうか、このままあきらめたら、きっとこの試験も失敗するなって思ったんだ。これまで失敗ばかりの人生だったからかな、自分が変わるきっかけがほしかった」

「ユウゴさん、夏休み前とはまるで別人みたいですね。さっき話してた大人の男になったってこういうことなんですね」

「大人の男になった? 何それ。なんか風俗にでも行ってきたように聞こえるわよ」

 ぶははとタクヤがまた大声で笑った。

 

 6級の試験が始まった。午前から続く試験に多少の疲れはあったものの、その疲労は時おり僕の中に、あの旅で見たたくさんの景色をよみがえらせた。

 後悔はなかった。これまでやるべきことはやったしこれが自分の実力だ。もし、実力以上のものを出し切れたなら、それは田中先輩の言うように運なのだろうし、そうでなくてもそれは、僕という人間の持った運なのだろう。結果に一喜一憂なんてしないぞ。いつだって次の目標に向かって再出発すればいい。

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