「僕だって今日、こうしてソンウとユウゴを会わせたのにはちゃんとした理由があるんだ。もちろんソンウの恋の件もあるけど、2人は同い年だし、仲良くなってもらいたかったんだ。ソンウは獣医学科の後輩で長く見てきたし、ユウゴのことはウニョンからもよく聞いてたからね」
「さっき夜勤明けって言ってましたけど、ソンウはバイトやってるんですか?」
「そうなんだよ」
スンウォン兄さんは隣の部屋に耳をそばだてた。早くもソンウのいびきが聞こえる。
「疲れてるのに飲みすぎたんだな。ソンウが入学してきた時、僕はちょうど兵役を終えたばかりの復学生だったんだ。学科のMTで初めて話したんだけど、僕は日本の映画が好きだったし、ソンウは日本のアニメオタクで、話が合ったんだ。日本語がうまいから、なんで日本語学科に行かなかったのかが不思議でね。それからご飯食べに行ったりして仲良くなったんだけど……」
そうしてスンウォン兄さんはソンウについて話してくれた。
「ソンウの実家は
牛島って行ったことがあるかわからないけど、小さい島なんだ。だから周りに友だちも少なくて、いつもソンウは妹と遊んでいたんだって。突然、遊び相手の妹を失ったソンウはその現実をうまく受け入れられなくて、悲嘆にくれる母親に弟か妹が欲しいってひたすらねだった。だけどそれは叶わぬ夢だった。しかたなく母親は子犬を家で飼うことにした。
母親はペンションを売却せず、亡くなった夫の意志を継いでそのままペンションの経営を続けることにした。牛島はもともと母親の実家のある場所だったから、親戚もいろいろ助けてくれたんだって。だけど牛島はソンウにとっては小さすぎた。毎日、ペットの子犬、ベックって言ったかな。そのベックと島中を駆け回りながら、ソンウの……そう、冒険心。冒険心を掻き立てたのが日本のアニメだったんだ。どこでどうやって手に入れたかはわからないけど、とにかくソンウはそれを繰り返し見て日本語を自然と覚えたらしいよ。
ソンウの母親はソンウにペンションを継いでもらいたがっていて、大学では経営とかを専攻するように言っていた。だけど高校に入学してすぐのころに、そのベックが病気にかかって獣医に診てもらったんだって。その時、死にかけていたベックが回復する姿を見て、獣医になろうと決意したって聞いたよ。でも獣医学科って何かと金がかかるんだよね。それで親に心配をかけないように内緒で夜勤のバイトをしてるんだ」
スンウォン兄さんはそこまで話すとトイレに行くために立ち上がった。ソンウは隣の部屋で気持ちよく眠りこけている。夜勤をしながら大学に通うのがどんなに大変かは僕も自分の経験からよく知っていた。獣医学科の勉強は実習や課題も多いだろうにうまくやりこなせているのだろうか。でもそこまでしてでも獣医になりたいという強い思いがあるに違いない。交通事故で亡くなった妹とその妹に代わって遊び相手になったという子犬のベック。小さな牛島で子犬と駆け回る幼いソンウの姿が浮かんだ。
「スンウォン兄さん、牛島って船ですぐ行けますよね?」
トイレから戻ってきたスンウォン兄さんに訊いた。
「うん。ほら、一緒に行った
「あそこに観光に行ってみるのはどうですか?」
「牛島へ? ああ、さっきのダブルデートの話か。大丈夫そうかい? さっきはああ言ったけど、もし負担になるなら無理しなくてもいいよ」
「ナオももしかしたらまだ牛島には行ったことがないかもしれません。もし行ったことがなければ、牛島出身の学生が観光案内してくれることになったって誘えば自然かもしれません」
「なるほどな。ソンウもそれなら大歓迎だろうな。お、ということはユウゴも好きな女の子に声をかける気になったか?」
「それは……少し考えておきます」
その日、部屋に戻ると済州島の地図を広げてみた。牛島。済州島の北東に浮かぶ小さな島。地球の周囲を公転する月のようにそれはひっそりと、そして済州島を見守るように海に浮かんでいる。
『ナオ、ユウゴです。牛島に行ったことありますか? 今日、牛島出身の学生と知り合ったんですが、牛島の観光案内をしてくれるそうです。もし行ったことなかったら一緒に行ってみますか?』
携帯メールに入力してみた。韓国語でしか打てないため、不自然ながら敬語になってしまう。僕がナオをデートに誘っているように思われないだろうか。そんなことを一時間近く悩んだ末、しまいには、「えい、人助けだ」と割り切って発信した。すぐに返信が来た。
『うわ! 行きたいです! 行ったことありません』
よし! 早速ソンウにメールを入れておこうと思ったが、ナオには牛島出身の学生が男子学生だと伝えていなかったことに気がついた。礼儀として今からでも伝えるべきだろうか。いや、行くという返事をくれた今になってわざわざ伝えるのもどうなんだろう。そんなことをまたあれこれ考えながら、だから僕にはこういう役回りは向いていないんだと落ち込んだ。その時、ソンウからメールが来た。
『ユウゴ、今日は会えてうれしかったよ! ぼくにとって初めての日本人の友だち……。これからぼくたち仲良くしよう』
ナオのことには触れていなかったが、彼の喜ぶ顔が浮かんで、僕はすぐに返信を送った。
『僕も会えてうれしかったよ! ナオに連絡しました。返事はOK。一緒に牛島を観光しよう!』
『電話する!』
そう返信が来ると同時に電話がかかってきた。珍しくその日はピアスもゲーマーもみんな部屋に勢揃いしていた。そんな部屋で女の子のことについて話すのが気まずく、廊下を走って、個室になっているアイロン部屋に駆け込んだ。
「もしもし、ユウゴ! やっぱり君はぼくの親友だ!」
「僕だってこれくらいのことはできるよ」
「OKだって? ちゃんとぼくのこと話してくれたんだよね?」
「OKというのは、恋人になることじゃなくて、一緒に観光に行くことだよ。ソンウのことは詳しく話してないけど、牛島出身の学生が牛島を観光案内してくれるって話したら、行きたいって。ナオも牛島には行ったことないんだってさ」
「そうか。とにかくうれしい! でも本当に牛島でいいのかな? あんな小さなところで」
「牛島だから良かったんじゃないかな。僕も行ってみたいよ」
「よし、ぼくは今から牛島の歴史を勉強するぞ。ナオを案内するんだ。そういえば、ユウゴはどうするんだ? 女の子に声をかけたか?」
「いや……。考えてなかった。どうしようかな、ナオも行くことになったし……」
本当に、考えてはいなかった。だけどその人は僕の脳裏にずっと浮かんでいた。ただ、考えるのをずっと避けていたのだ。
キム・ミソとは夏休みに図書館の入口で偶然会って以降、ほとんど顔を合わすことはなかった。初めて紹介された時、日本に留学したくて準備をしていること、日本語を教えてもらいたがっていること、日本人の友だちがいないということを知った。僕は胸の高鳴りを覚えながらも自分から連絡を取ることはしなかった。僕なんかよりもタクヤやナオのほうがずっと日本人として魅力的だし、僕が彼女と仲良くなったところで、「この人は期待していた日本人とは違った」と幻滅されるのが怖かった。だから、夏休み中に図書館前で鉢合わせ、言葉を交わしたあとも、自分から連絡を取ることはしなかった。あの時、彼女は日本語で話す相手がいないと嘆いていた。試験は11月だと話していた。今は10月だった。
もっと自分に自信を持ったほうがいい。田中先輩の言葉が浮かぶ。それはわかっている。だけど、自分に自信を持つことと、気になる女の子に声をかけることとは別問題だ。
おまえは自分を守ろうとしかしてねえんだよ。ドゥヒョン先輩の言葉が浮かぶ。それは認める。だけど、自分の殻を破ることと、気になる女の子に声をかけることとはやはり別問題だ。
難しく考えることじゃない。みんなで仲良くなれればそれでいいじゃないか。スンウォン兄さんの言葉が浮かぶ。
そうだ。僕は何を期待していたのだろう。みんなで仲良くなれればそれでいいんだ。誰も損はしない。それ以上のものを望む気持ちが僕の中にあったから、僕は何もできなかったのだ。何も期待なんかしないぞ。そう思った瞬間、携帯を持つ手が震えだした。