「皆さん、今日は、ぼくの故郷の牛島に遊びに来てくれてありがとうございます。昼食を食べたあとに、牛島の観光地をご案内します。まずクイズです。牛島はなんで牛島っていうかわかりますか?」
船の着いた港の近くの食堂であわび粥を注文すると、ソンウがまるで原稿を読み上げるように言った。僕は心の中で頑張れとつぶやいた。そしてクイズの答えはまったくわからなかった。
「漢字で牛の島だから……昔から牛が多かった!」
ナオが人差し指を突き上げながらそう言うとソンウはにっこり微笑んだ。
「ユウゴは?」
「ごめん、僕にはまったくわからないよ」
「答えは、牛が寝ているように見えるからです。ほら、見てください」
僕らは顔を突き合わせて牛島の地図を凝視した。
「なんだか、亀が海を泳いでるようにも見えますね」
「本当だ! ナオさんは感性がすごおく豊かですねえ」
ソンウが大げさに言うと、ソンウの隣に座っていたミソが笑いをこらえるように口を押さえた。
「済州島の周りには63個の島があります。その中で牛島は最大の島です。耕地面積は全体の約71パーセントで、ニンニク、ピーナッツなどを栽培しています。また、海女による海産物の採取も盛んです」
「すごい。さすが、牛島出身だけあって詳しいですね」
そんなナオの称賛に気を良くしたのかソンウは咳ばらいをして続けた。
「17世紀後半に馬を飼育するために国営の牧場が設置されてから人々の往来が始まります。そして1840年代から牛島の開墾が許可され、一般人の居住が許可されました」
「どこで勉強したんですか?」
ミソがソンウの隣で韓国語で質問した。
「君は知らなかったでしょ?」
「わたしは知ってましたよ。だってわたし、観光経営専攻ですよ」
「ミソさんって観光経営専攻なんですか?」
「はい、そうです」
そうしてミソとナオの2人は観光の話題で盛り上がった。僕はソンウと目を合わせそんな2人をしばし見守った。
食事が出てくるとソンウが口を開いた。
「このあと、ぼくのお母さんが車で迎えに来ます。自転車をレンタルすることも考えたんですけど、疲れるかなと思って……」
「お母さんと会うなら早めに言ってくださいよ。手ぶらで来ちゃったじゃないですか」
ミソが心配そうに言うとソンウが得意気に皆に言った。
「ぼくの実家はペンションを経営しています。お客さんの送迎用の車もあります。だから気を使わなくてもいいです。安心してください」
「実家がペンションですか? うらやましいです!」
ナオが目を輝かせながらそう言うと、ソンウは照れながら、母親に30分後に迎えに来るよう電話をした。
ソンウによると、実家のペンションは西部の海水浴場の近くで、夏は海水浴客で賑わうが、秋から冬にかけては閑散期になるという。妹を失ったソンウの遊び相手となり、獣医になるという夢のきっかけになったペットのベックにも会えるだろうか。
ちょうど30分後に黒のバンが食堂の前に到着し、ジャンパー姿のソンウの母親が運転席から降りてきた。屈託のない笑顔が印象的だ。
「皆さんようこそ。さあ、乗ってください」
2列目に僕とソンウ、3列目にミソとナオが座った。
「あんた本当に日本語話せるんだねえ」
日本語で必死に牛島の地理について説明するソンウに向かって、母親は感嘆の声をあげた。
「ソンウさんの日本語、すごく上手です」
ナオが韓国語で母親にそう伝えると、ソンウが照れたように思い切り首を横に振った。
「ナオさん? あなたも韓国語お上手ね。牛島は初めてでしょう?」
「はい、初めてです。わたし、観光に興味があるのですごく楽しみにしていました」
「あら、観光に興味があるの? そうだったの。皆さん、あとでうちのペンションにもご案内しますからね。コーヒーでも飲んで行ってくださいね」
最初に向かったのは牛島峰と呼ばれる丘だ。近くにあったようですぐに入口に到着した。ソンウの母親は車の中で待っているということなので、僕らは4人で降りた。
「お母さんに悪いですね。ペンションで忙しいのになんだかドライバーみたいなことをさせてしまって……」
ナオが車を振り返りながらそう言うと、ソンウが「大丈夫です。お母さんはサービスが好きです。それが自分の生きがいと言ってます」と言って先を歩き始め、僕もソンウに続いた。
緩やかな階段が長く続いていた。ミソとナオは周辺の写真を撮りながら後ろをゆっくりと歩いている。
「ソンウ、うまくいってるね。ナオもきっといい印象持ってるはずだよ」
「そうかなあ。でも、やっぱり緊張してうまく話せないよ」
「それもソンウの魅力だよ」
「……そういえばユウゴ。ユウゴはなんでもっとミソと話さないんだよ」
「だってそういうタイミングがなかったし……。そもそも女の人と話すのが苦手だって話したじゃないか」
「タイミングは自分で作るんだよ。待っててもダメ。なんかユウゴは男らしくないよ」
男らしくないという言葉に僕は少しむっとした。
「だから僕は別に彼女とどうこうなりたいとかはないんだって」
そう言ったきり僕が黙ってしまったので、ソンウは、
「うん、でもそれがユウゴの魅力だよ」と言って後ろの2人を振り返った。
頂上には牛島灯台と呼ばれる白い灯台が立っていた。辺りを見渡すと、牛島の町並みと遥かに済州島本土が見えた。
「ありがとうございます。今日は誘ってくれて」
ナオが隣で写真を撮りながら言った。
「いや、ソンウが牛島を案内してくれるって言うから……」
「ソンウさんって真面目でユウゴさんに似てますよね」
「そうかな……」
見ると向こうのほうでソンウとミソが話し込んでいた。
「ソンウさんとはどうやって知り合ったんですか?」
ほかでもなくナオがきっかけなのだとは当然言えず、
「あ、なんか日本人の友だちがほしかったみたいで紹介してもらったんだ」とごまかした。
「あれ、じゃあミソさんと同じだったんですね。ミソさんも日本人の友だちがほしくてユウゴさんを紹介してもらったって言ってました。ユウゴさんって人気者なんですね」
「あ、でも、ミソさんとはまだ全然親しくなくて……」僕がしどろもどろになると、
「ユウゴさんのおかげでいい人たちと出会えました」と言ってから、みんなで写真撮りましょうとソンウとミソに声をかけた。
ナオがそう思ってくれているなら良かった。きっかけは作ってあげたんだからあとはソンウがうまくやるはずだ。
みんなで写真を撮り、ソンウの案内で牛島峰を下っていくと、絶壁が見えてきた。ソンウによると、そこは牛島八景という名所に数えられる景勝地なのだという。ソンウは時々言葉を詰まらせながら、牛島八景について日本語で丁寧に説明してくれた。僕はソンウの話に耳を傾けながら、大自然が作り出した圧倒的な景観に見とれていた。
船での移動のあとに歩き続けたせいか身体はだいぶ疲労していた。僕らはソンウの母親の車に戻りペンションに向かった。車窓から見える牛島の素朴な風景は済州島で見た風景そのものだった。船にして15分の距離なのだから当然だろうが、それは僕にあの夏の旅を呼び覚まし、そしてかすかな自信を与えた。
3階建ての白いペンションはメルヘンチックな作りだった。
「うわあ。かわいい!」
ナオとミソが車を降りるや声を弾ませた。
母親とソンウがペンションの入口に着くと、茶色のプードルがしっぽを振りながら駆け寄ってきて、ソンウが「ベック!」と言いながら抱き上げた。
僕らはペンションのロビーに案内されソファに腰掛けた。ソンウの母親とソンウが飲み物を準備しに行っている間、僕は立ち上がり窓の外を見ていた。
「ミソさんは、観光経営専攻なら、済州島の観光地はもうほとんどぜんぶ行ったんじゃないですか?」
「全然、そんなことないです。学校の遠足とか以外では行ったことないんです。たぶん、ナオさんのほうがわたしより行ってると思いますよ。わたしはいつか彼氏ができたら一緒に観光したいです」
ミソは無邪気に笑い、僕は何も聞いていない振りをしながら遠くを眺めていた。
間もなくソンウの母親とソンウがコーヒーとお菓子を準備してやってきた。ペットのベックも一緒だ。
「さあ、お待たせしました。わたしは仕事で向こうに行ってるけどごゆっくりしてくださいね」
そう言って母親は客室のほうに姿を消した。
「お母さん、すごくいい人ですね。ずっと笑顔だし、わたしもお母さんみたいな女性になりたいです」
ナオの言葉にソンウは顔を赤くしながら、「本当ですか? あとでお母さんに伝えます。喜ぶと思います」と言った。
スンウォン兄さんによると、ソンウの父親と妹は交通事故で亡くなっている。それはつまりソンウの母親の立場からすると、事故で夫と娘を亡くし、自分は夫の残したペンションを継いでいることになる。人一倍の精神力がなければとてもやりこなせることではない。
「すごくソンウになついてるね」
ソンウの膝の上でソンウを見つめているベックを見ながら僕は言った。
「そうだよ。ぼくの兄弟だよ」
「犬が好きだから獣医学科に進学されたんですね」
「はい、そうです。子どものころに妹が交通事故にあいました。それでお母さんが妹の代わりにベックをくれました」
「そうだったんですね……」
ナオはそう言ったままベックをじっと見ていた。
僕らはそのまましばらく雑談をし、ペンションの庭に出た。ベックはソンウの周りをきゃんきゃん言いながら駆け回り、ナオとミソはぶらんこに乗ってそれを見つめていた。平和な光景だった。なんだか昔の西洋画の一風景にでもなりそうな。今、僕はその絵の中に入り込めているだろうか。
「きれいな庭でしょ?」
そう言いながらソンウの母親が庭に出てきて、
「今日空いてる部屋あるけど、皆さん、泊まって行ったらどうですか? もうすぐ夕方だし、ゆっくり海でも見に行ったらいいわ。せっかくなんだから」と声をかけた。
「何言ってるんだよ、母さん。急にそんなこと言われてもみんな困るじゃないか」
ソンウはベックを抱きかかえながら、慌てて母親を制した。
そんなソンウの狼狽を打ち消すように、ミソとナオは目を合わせながら拍手をしていた。
「本当ですか? さっき2人で泊まりたいねって話してたところだったんです」
ミソが少し遠慮がちに微笑んだ。
「でも、何も準備もしてきてないだろうし。……ナオさんは大丈夫ですか?」
「もちろんです。こんな機会めったにありませんし、それにペンションのこともっと知りたいです」
ソンウは僕にも意見を求めるように振り返った。しかたない。ミソとナオがその気ならしかたない。僕だけ反対するわけにはいかない。しかたない。
「僕も大丈夫だよ」
ソンウは急な展開に困ったように頭をかいていた。
「みんな大丈夫でしょ? せっかく日本から来てくれたんだからこれくらいのことはしてあげないと。部屋は2つあるから安心してくださいね。じゃあ準備してくるわ」
そう言って母親は客室のほうに戻った。予想だにしない旅行になってしまった。