僕と済州島の物語

2002年に済州島でホームステイ、 2005年に済州島に留学、2013年に済州島で国際結婚、2015年に済州島で長男誕生。 そんな僕と済州島の物語です。

済州島留学物語 第30話【冬3】

 携帯メールの受信を知らせる着信音で目が覚めた。

 9時過ぎだ。珍しく遅くまで眠ってしまった。発表資料の準備のせいで疲労がたまっているのかもしれない。

『ユウゴさん! わたし、合格しましたよ! 来年、日本に行きます』

 ミソだった。

 しばらく携帯を握ったままそのメールを見つめた。そして、来年、ミソが日本にやってくるという事実と向き合った。

『約束覚えてますよね? 一緒に済州島を観光しましょう! 行かなきゃダメ』

 すぐに2通目のメールが届いた。

 僕はベッドから起き上がり、洗面所に顔を洗いに行った。

 怖かった。

 遠く離れた沖縄とは言え、彼女が日本にやってくるという事実は、僕とミソとの距離を一気に縮めた。ミソの沖縄留学が僕とミソをつなぐ一つの線になったのだ。そしてそのままその線を進んでいくと彼女に本気で恋をしてしまいそうだった。だけどこんな臆病な自分のまま彼女に近づくことなどできない。

 それに彼女は日本に行けば、僕以外のたくさんの日本人と出会うだろう。今後僕はその多くの日本人の中の1人になっていくのだ。今はただ、頼れる日本人が少ないから、僕に声をかけてくれているに過ぎない。それを忘れてはいけない。

 問題はその前提で、彼女と済州島の観光に行くかどうかだ。

 後悔してはいけない、とソンウは言った。わかってる。

 そんなソンウに対して僕は、もっと自分に自信を持ったほうがいいと言ったが、本当は僕自身に語っていたのかもしれない。

 なぜ僕はいつも自信を持てずにいるのだろう。いつまで経っても変わらない。中学時代の初恋からの逃避も、高校時代の立花君との葛藤も、根本をたどればそれは自分に自信を持てない僕自身にその原因があったのだ。

 そんな臆病な僕が、これから社会に出ていくためには武器が必要で、僕は必死に韓国語能力試験の最難関に挑戦した。そして合格をつかんだことでその武器を手にした。たしかに自信はついた。だけどその武器を手にしている僕自身は何か変わっただろうか。剣を手にしたところで、僕自身が臆病のままであったらそれを使いこなすことなどできない。本当に僕が成長するためには、臆病な僕自身が変わらなきゃいけない。そう、歩いて済州島を一周した時のように、僕は変わるために一歩を踏み出さなければならない。そうして僕が変われた時、僕は本当の意味で自分に自信を持つことができるだろう。それまでは、彼女に近づくことはできない。

『合格おめでとう! 力になれて良かったよ。最近、忙しくて、観光は難しいかもしれない。でもお礼は大丈夫だから』

 メールを送信し、僕は前を向いた。

 

 発表4日前。

 僕ら日本グループの4人は、遅くまで空き教室で打ち合わせをした。資料もほぼ完成し、韓国語での発表原稿も作成した。

 上下関係や学歴を重視する儒教の影響が色濃い韓国の音楽界では、歌唱力の高い実力派シンガーや厳しいオーディションを突破したアイドルが人気なのに対し、日本では個性豊かなミュージシャンが人気だという趣旨のプレゼンだ。

 夜10時過ぎ、寄宿舎に戻ると日本から手紙が届いていた。知らない名前だった。

 日本から手紙が届くなんて初めてのことだったので、すぐに開封してみた。ピアスはデート中なのか部屋にはゲーマーだけがいた。

 

拝啓

 

 初冬の候、先日はご丁寧なお手紙を頂戴しありがとうございました。

 夫鈴木義男は、病により本年8月に他界いたしました。

 連絡が行き届かず申し訳ございませんでした。また、生前のご交誼に深く御礼申し上げます。

 韓国からのお手紙でしたので、無礼とは承知の上でお手紙の内容を拝見しました。

 教師である夫の生きがいは、自分らしく夢に向かっていく若者の姿を見守ることでした。頂戴したお手紙に溢れる力強い決意を拝見しながら、教師であった夫の人生は幸せな人生であったと身に染みて思った次第でございます。

 ますますのご活躍をお祈り申し上げます。初冬のおりから、くれぐれもご自愛ください。

 

敬具

 

 手紙を丁重に折りたたんで封筒にしまった。まるで見てはいけないものを誤って見てしまったように、目に入らぬよう机の奥深くに入れた。

 ゲーマーのキーボードを連打する音が耳に障った。そのキーボードの連打は、そんな僕らの世界に無理やり穴をこじ開けようとするドリルのように僕の頭に響いた。

 僕はそこから逃げるように寄宿舎の裏庭に向かった。雨が降っていた。初めて済州島にやってきた時と同じような冷たい雨だった。

 8月……?

 あの真夏の済州島徒歩一周の旅を思い起こした。刺すような黄金色の陽射しとうだるような暑さ。銀河のようにきらめく海と青々と生い茂る大自然。そして僕の胸に燃え立つ情熱の血潮。それは「死」とは対極にある世界だった。何もかもが生き生きとその生命を輝かせていた。

 僕がそんな世界を歩いている時に、鈴木先生は「死」へと旅立って行った……。

 木の枝から滴り落ちる雨が髪を伝い頬を濡らした。

 この留学で変わっていく僕の姿を見てもらいたかった。

 未知の世界に怯えてばかりだった僕が、奇跡のようにこの地で過ごしている姿を見てもらいたかった。

 だけど、それは永遠に叶わない。

 涙が雨と一体になった瞬間、世界とのつながりを感じた。

 あれだけ未知の世界に怯えていた臆病な僕が、未知の世界でたしかに生きている。僕はもう一歩を踏み出しているのかもしれない。いや、もう何歩も前に進んでいる。留学を決意した瞬間から、僕の前に使命の道は開かれていたんだ。そして僕はその道をずっと歩き続けている。韓国語能力試験に挑戦した時も、済州島徒歩一周に挑戦した時も、僕はずっとその道を歩いていた。それはすべて、臆病な僕自身を変えるための、未知なる世界への挑戦だったのだ。

 だから、僕に今できることは、その道を進み続けることだ。何も、間違ってなんかいない。自信を持って進み続けるんだ。

 降りしきる雨は一層激しくなった。

 僕の鼓動も激しくなる。

 拳を強く握りしめた。その思いがどこか遠くへ逃げてしまわないように。

 あいにく夜空に星は見えなかった。だけど僕は今、心の奥深くに星を浮かべよう。星をうたう心で――。

 

 翌日の朝、タクヤと待ち合わせをし、前夜、僕の心にふと生まれた決意をぶつけた。怖かった。だけど後悔したくない。最後にどうしても挑戦してみたい。臆病な自分自身に打ち勝つために。

 タクヤは目を丸くした。

「マジで?」

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